取り残された男に令嬢は
「大きくなったな、ユリア」
俺はそう口にしての前のユリア——かつての俺の娘だった女に、緩やかに微笑んでみせる。そんな俺を見つめるユリアの目元は俺とそっくりで、「娘は父親に似る」という俗説は本当なのだなと感じてしまう。
日曜日のカフェは、たくさんの人々で賑わっている。周囲の客や店員に、俺たちはどう見えているだろう? 「休日に二人でランチを取る仲睦まじい父と娘」と思われているだろうか。だが、成長したユリアとこうやって二人で話すのは今日が初めてだ。俺はユリアと会えなかった時間に思いを馳せながら、一抹の切なさとともに喜びを感じる。
元妻は俺の両親、伯爵夫妻と折り合いが悪く俺に対しても辛辣な態度を取っていた。結局、俺たちは「離婚」という道を選び俺とユリアは離ればなれになった。
伯爵家令嬢だった元妻は実家に出戻り、女一人でユリアを育てることになった。一度傷ものになってしまった令嬢として彼女は、苦労しただろう。
もちろんユリア自身もまた、母子家庭で何かと大変な思いをしたはずだ。
「今は、お父様が伯爵なのですか?」
ユリアは強張った表情で、静かにそう尋ねてくる。久しぶりに会った父を相手に何を話せば良いのかわからず、戸惑っているのだろう。その緊張を解きほぐすように、俺は軽い口調で答える。
「ああ、父上の仕事を引き継ぐ形でなんとかやってるよ。といっても結婚はしてないから、家督は甥っ子に譲る予定だけどな。だけどまぁ、伯爵としてそれなりの地位は確立してるよ」
口ではそう言ったものの、実際はそう気楽なものではない。
俺が元妻と別れた時代と違い、現代は貴族と平民の境目が曖昧になってきている。加えて元妻と離縁した際に色々と金を使ったため、現在の生活は決して裕福だとは言えない。
だがそうやって苦労したからこそ、俺はやっと元妻とユリアの大切さを知った。そしてまた、やり直そうと考えを改めたのだ。
「今になってやっと、家族の温かさと幸せさに気がついたんだ。だからユリア、今からでも俺はお前の父親としての役目を果たしたい。俺と、『家族』をやり直してくれないか?」
言いながら俺は、今日のために買ったユリアへの誕生日プレゼントを差し出した。可愛らしいピンクのラッピングペーパーに、ユリアが目を見開く。
「少し早いけど、誕生日プレゼントだ。開けてごらん」
俺からプレゼントを受け取ったユリアは、おそるおそるといった様子で包装紙を破いていく。中から現れたのは、大きなウサギのぬいぐるみだ。つぶらな瞳が愛らしく、店員によると子どもたちにも大変人気のある品だという。
「ユリアは小さい時から、ウサギが好きだったろう? 昔、猟に行ってあのウサギを連れて帰りたい、とだだをこねたこともあったな。あの時の俺はとても幸せだった。それを自分から手放してしまったことを、深く後悔している。ユリア、遅くなってしまったけど父さんとまた『家族』としてやり直そう」
言いながら俺はユリアの目を真っ直ぐに見つめる。ユリアの瞳はウサギのぬいぐるみをしばらく映したあと、静かに俺へと向いていった。
「お父様」
ユリアの言葉に、目頭が熱くなる。感動の再会、ずっと離ればなれだった父と娘の和解。そんなことフレーズが頭をよぎりながら、俺はユリアの言葉を聞いた。
「もう二度と、私に関わらないでくださいまし」
◇
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
ユリアの目は冷たく、軽蔑しきったような眼差しをこちらに向けて。唖然とする俺に、ユリアは冷静に口を開いた。
「ひどい嫁いびりをされていたお母様を捨てて、愛人を複数侍らせた挙句お母様を追い出したのはお父様でしょう。あなたがろくに養育費も払ってくれなかったから、お母様は伯爵家の手伝いとしてたくさんの仕事を掛け持ちすることになりました。でも私には『やりたいことをやってほしいから』と言って、伯爵家令嬢としての教育より専門職の知識をつける道を選ばせてくださいました。私が今、下手な貴族より高い給料を稼ぐことができるのはその知識を活かせる仕事に就くことができたからですわ。今はその給料でお母様と私たちの面倒を見てくれた現伯爵夫妻、お祖父様とお祖母様に恩返しをしようとしている最中なのですよ」
そうだ。俺は伯爵夫妻——俺の両親とうまくやれない元妻に嫌気がさし、他の若い女と関係を持って再婚に至った。
あの時は真実の愛を見つけたと思った。「私なら現伯爵ともうまくやっていける、伯爵家を盛り上げることができる」と囁く彼女の言葉を信じ、多額の慰謝料と引き替えにユリアとユリアの母親を追い出した。そうやって新しい妻と幸せな家庭を築けると信じ、俺は再婚したのだ。
だが俺の両親は、新しい嫁ともうまくやっていくことができなかった。その原因がもともと不貞によって結ばれた相手だからなのか、ただ単に人間的に合わなかったからなのかはわからない。だが新しい妻は「何かと口うるさい伯爵家に嫌気がさした」と言い、さっさと他の男の元へと転がり込んだ。その後は一切消息を掴めず、今もどうしているのかわからない。
養育費については何度か催促がきたが、あれだけ慰謝料を払ったのだからもう十分だろうと思っていた。苦労はするだろうが、俺からの支援などなくても母と娘の二人ぐらい別にやっていけるはずだ。実際、ユリアは成長しているし安定した職にもついている。なら今、独り身になった俺を父親として扱ってくれても良いのではないだろうか。
俺が元妻と別れた時、ユリアは「置いていかないで」と俺に縋ったはずだ。父親に対する愛情はもう残っていないのだろうか。
縋るような目を向ければユリアは俺に、冷め切った声音で答える。
「お父様が私とお母様を追い出したのは、私が六歳の時だった。でももう、今の私は二十六歳なのですよ? 既に結婚して、子どももいるのです。だから今更、私に頼ろうだなんて思わないでくださいまし。そもそも、こんな大きなぬいぐるみを貰っても置き場所に困るだけですわ」
言いながらユリアはさらに、ウサギのぬいぐるみをテーブルに叩きつける。
つぶらな瞳のウサギは、しかし何も不満を言わない。代わりに口を開こうとする俺に対し、ユリアはさらに言葉を投げつけてくる。
「私はもう子どもではありませんし、あなたの娘でもありません。二十年も経ってるのに、今更何を仰っているのか理解できませんわ。私を、いえ、私たち親子を馬鹿にするのも大概にしてくださいまし。今度、連絡を取ってきたら憲兵をお呼びいたしますわ」
そうきっぱりと言い放ったユリアは席を立ち、ウサギのぬいぐるみと俺を置いてきぼりにして出口へと向かう。待ってくれ、と声をかけようとすると無言で睨まれた。その表情にはほんの一欠片の愛情も見られない。思わず動きを止めてしまった俺をよそにユリアは自分の会計だけを支払って、ドアの向こうへと歩いて行く。俺はその背中を、呆然と眺めているしかできなかった。
一体どれぐらいそうしていただろう。はっと我に返ったのは、いつの間にか来た少女たちの笑い声を聞いてからだった。
まだ若いだろう少女たちは何やらわけのわからない単語を口にしながら、スイーツを前にきゃっきゃっとはしゃいでいる。その顔立ちは俺が若かった時のそれとは、似ても似つかない。当たり前だ、今と昔では時代が違う。俺が若いときは伯爵も権威を持っていたものだが、今では爵位など大した権力にもならない。
そうだ、ユリアの言う通りだ。俺が元妻とユリアを捨てて二十年が経ち、その間に世の中は色々と変わった。けれどその中で、俺は家族の絆だけは変わらないと思っていた。だが、そんなものは最初から無かったのだ。俺は本来なら手にしていたはずの幸せを、自分自身で捨てていたのだ。
母が若い女を見ると嫉妬し、何かにつけて嫌味を言う性格であると知ったのは母の葬式でのことだった。
伯爵家の葬式ということで多数の列席者が招かれたものの、参加した者たちは皆、遺影を見ながらヒソヒソと「やっと死んでくれた」「街中の嫌われ者だった」と話している。その列席者の数も少ないもので、泣いているのは俺一人ぐらいのものだった。
俺が知らなかったことはそれだけではない。自分が伯爵となりとにかく新しいことを覚えるのの必死だった俺は、自分がバツ2の男と後ろ指を指されていることも長年気づかなかった。俺にとっての二十年はあっという間だったが、化粧をして髪に宝石——おそらく夫の瞳の色と同じだろうものをあしらった髪飾りをつけている姿を見て、気がつくべきだった。
もう、ユリアは子どもじゃない。そして俺の娘でもない。本当ならもっと早く直視すべきだった現実を、俺は今になってやっと目にしたのだ。
ふと隣を見ると、ガラス窓に自分とウサギのぬいぐるみが並んで映っていたるウサギのぬいぐるみはただ無表情に、テーブルで転がっているだけだ。だが、席に着く俺の姿はそうではない。映っているのは時代に取り残され、すっかりくたびれた老人のそれだ。
短いと思っていた時間は、あまりにも長すぎた。もう何もかも戻らない。その事実に打ちのめされた俺は、そっと涙を流すしかできなかった。