中編
家に戻り婚約破棄されたことを告げると、予想通り父であるベルン公は激怒した。陛下の信頼を裏切ったうえ、王子に捨てられた傷物の娘。そんなものを家には置いておけないと、父はその場で私を郊外の屋敷に追いやることを決めてしまったのだ。
どうやらほとぼりが冷めるまで、そこに押し込められるらしい。修道院送りにされなかっただけましだったろうか。
郊外の屋敷での暮らしはとても退屈だった。ルーカスのそばにいた頃とは大違いだ。特にすることもないので、一人で本を開いて財務や政治の勉強を続けていた。もうそんな勉強に意味はないと分かっていたけれど、長年の習慣になってしまっていたのだ。
けれどそれだけではとても暇が潰しきれない。今の私には、時間だけはたっぷりとあったから。
「……お菓子でも、作ってみましょうか」
自分でもどうしてそんなことを思いついたのか分からない。ただ、かつてルーカスに近づこうとしていた令嬢たちは、手作りのお菓子で彼の気を引こうとしていた。そしてルーカスが選んだのも、私よりずっと女らしいアデレイド。
私にもう少し女性らしいところがあれば、今のこんな事態は避けられたのではないか。もう少しルーカスの心を繋ぎ止めることができていたなら、あんなに苦しむことも、こんなところで一人呆けることもなかったのではないか。
馬鹿馬鹿しい考えだと分かってはいたが、私はどうしてもその思いを振り払うことができなかった。
厨房に足を踏み入れると、中年の女性の料理番が驚いた顔を向けてきた。それも仕方ないだろう、今まで私は厨房に入ったことはない。幼い頃の私は父のそばで財務や政治の勉強ばかりしていたし、婚約してからはずっとルーカスのお守りに忙しかったのだから。
「お嬢様、どうされました?」
「……料理を、教えてもらえないかしら」
今までの自分なら決して言うこともなかっただろうそんな言葉が、驚くほどあっさりと口からこぼれた。料理番はさらに驚いたらしく目を真ん丸にしていたが、すぐに気を取り直してふっくらとした顔に笑みを浮かべた。
「分かりました、何か作ってみたいものがありますか?」
「……その、焼き菓子を」
急に恥ずかしさが襲ってきて、つい小声になってしまった。こんな行いは、丸っきり自分らしくない。けれど料理番は頼もしげに大きくうなずくと、すぐに必要な材料を取りに食糧庫に向かっていった。
一人取り残された私は、まだ恥ずかしさと闘いながらも、どこか心が浮き立つのを感じていた。
生まれて初めての料理は思ったよりずっと楽しかった。すぐに基本を身に着けた私は、どんどん工夫を重ねていくようになった。
毎日朝から晩まで厨房にこもり、その一角を占拠して様々な焼き菓子を試作し続けた。香草や香辛料を加えたり、粉や砂糖の配合を変えてみたり。
そうしてできあがった大量の焼き菓子はとても一人では食べきれないので、屋敷の使用人たちに配って回った。家族や友人と食べてちょうだい、と言葉を添えて焼き菓子を渡すと、彼らはみな喜んでくれた。その笑顔は、上辺だけのものではなく、心からのもののように見えた。
そうして私が新たな趣味に没頭していたある日、突然一人の客人が私を訪ねてきた。
「やあ、シャーロット。元気にしているようだね」
「陛下、どうしてこんなところに」
「ああ、もう私はただの『陛下』ではなく『先王陛下』なんだよ。言うなれば、ただの隠居だね」
供も連れず一人で馬を走らせてきたのは、ほかならぬこの国の王にしてルーカスの父、パトリック様その人だった。しかし隠居とは、どういうことなのだろう。
そんな疑問が顔に出ていたらしく、パトリック様は息子とはあまり似ていない顔をほころばせた。
パトリック様とルーカスは、暗い金髪と深い琥珀色の瞳こそ同じだが、それ以外は驚くほど似ていなかった。線が細く頼りなげなルーカスとは違い、パトリック様は落ち着きを備えていてとても頼もしい。それにパトリック様はまだ三十四歳と若いということもあって、ルーカスと並ぶと親子というより兄弟にしか見えないのだ。
「あの子はアデレイドと婚約してから、しきりに私に退位を迫るようになってね。まあおそらくはアデレイドに言わされていたのだとは思うけれど」
「そんな、失礼を承知で申し上げますが、ルーカス様はまだ王として力不足では」
「私も同じことを言ったのだけどね、ルーカスは珍しく強情で、一歩も引かなかったんだ。だから私はあの子の望み通り退位することにした。……実際に背負ってみれば、あの子も国というものの重みを嫌でも理解するだろうし」
パトリック様は世間話でもするような気軽さで、とんでもないことを言っている。この豪胆さを少しはルーカスに見習って欲しい。
「ところで、今日はどういった御用でしょうか」
「ああ、そういう訳で隠居したのはいいんだけど、独り身での隠居暮らしはどうにも暇でね。そうしたら、屋敷の使用人から君の噂を聞いたんだ」
「噂、ですか……?」
かつて社交界でさんざん悪意にまみれた噂を流されたこともあって、噂と聞くとどうしても身構えてしまう。使用人たちは、どんな噂をしていたのだろう。ほんの少し、背筋が寒くなるのを覚えた。
「そうだよ。君が最近、美味な焼き菓子を大量にこさえていると聞いてね」
「えっ」
確かに、使用人たちには毎日大量に焼き菓子を配っているし、そこからのおすそ分けで他の屋敷の使用人たちの口に入ってもおかしくない。しかしそのことがパトリック様の耳に入るほど、噂になっていたとは。
「噂になるほどの焼き菓子というのがどんなものか気になったんだよ。良ければ、私にも分けてくれないかな」
「そんな、パトリック様のお口に合うようなものでは」
あくまで菓子作りは趣味でしかない。それなりに美味なものが作れているとは思うけれど、パトリック様が想像しているほどの味だとは、どうしても思えなかった。彼のがっかりする顔は見たくない。
そう言って必死に断ろうとした時、廊下の向こうからふわりと甘い香りが流れ込んできた。間の悪いことに、オーブンに入れていた焼き菓子が焼き上がり始めたのだ。
「おや、ちょうど焼けた頃合いなのかな。シャーロット、せっかくだから焼き立てを振る舞ってもらえると嬉しいね」
茶目っ気たっぷりに顔を輝かせながらパトリック様が笑う。こうなっては、私は全面降伏するほかなかった。
「君が元気そうで良かったよ。ベルン公が激怒して君をここに追いやってしまったと聞いた時は、悪いことをしたと思っていたんだ。どうにか彼を説得しようとしたんだが、彼は『あの娘は家の恥ですから』と言って聞かなくてね」
客間の椅子に腰を下ろしたパトリック様は、焼き菓子を持ってきた私にそう声をかけた。家の恥、その言葉に胸がちくりと痛む。でもそれ以上に、パトリック様が父を説得しようとしてくれたことが、ふわりと心を軽くしてくれた。
「ほとぼりが冷めたら、また彼を説得して君を呼び戻そうとは思っていたんだが、その前に私が隠居する羽目になってしまった」
申し訳なさそうにパトリック様が苦笑している。私は感謝の意を込めて、そっと頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます」
「いや、元はといえば、君をルーカスの婚約者に決めてしまった私が悪いのだからね。……おや、これはいい香りだ」
彼はそう言いながら焼き菓子を一つ手に取り、優雅に口に運ぶ。そんな仕草も堂々としていて、思わず見とれてしまいそうになる。
期待と不安で胸を高鳴らせている私の目の前で、彼は満足そうに大きく笑った。思わず安堵のため息がこぼれる。
「……こんな焼き菓子は食べたことがないな、とても複雑で奥深い味わいだ。香草が使われているのは分かるんだが。君は料理が上手いんだな」
「いえ、そんな。料理はこの屋敷に来てから、暇つぶしにでもなればと思って始めたものですし、まだまだです」
「これだけのものが作れるんだ、もっと誇っていいと思うよ。……つくづく、ルーカスは愚かなことをしたものだ、これだけの女性を袖にするなんて」
私がその言葉に息を呑んだのに気づいているのかいないのか、パトリック様は一度目を伏せ、またこちらを見つめると静かに話し続けた。
「アデレイドは可愛らしいし女性らしい魅力を備えている、だがそれだけだ。君は少々女らしくなかったかもしれないが、それでも人間としての魅力は君の方が断然上だよ」
こんな風に褒めてもらえたのはいつぶりだろう。ルーカスは一度も私に目をかけることはなかったし、私の周囲にはいつも小さな悪意が満ちていた。
久しぶりの温かい言葉に、いつしか涙が頬を伝っているのを感じていた。そして、そっと私の手を握っていてくれるパトリック様の手の感触も、こわばっていた心を優しく溶かしてくれるようだった。
しばらくの間、私は静かに泣き、その間パトリック様は私を励ますように向かい合っていてくれた。ひとしきり泣いたことで落ち着いた私はハンカチでそっと目元を押さえ、頭を下げた。
「お見苦しいところをお見せしました」
「いいんだよ、君だって弱音を吐きたい時くらいあるだろうから。それに、私は君に謝らなくてはいけないし」
そう言えば先ほども、私をルーカスと婚約させた自分が悪い、とパトリック様は言っていた。けれどその判断は王としては当然のものだったのだし、わざわざ謝罪する必要なんてない筈だ。
けれどパトリック様は机に頭がつきそうになるほど深々と頭を下げると、痛々しさがにじむ声で謝罪の言葉を紡ぎ始めた。
「私は……幼くして母を亡くしたルーカスが不憫で、つい甘やかしてしまった。その結果、あの子はあんなに頼りない王子に育ってしまった。その後始末を全部君に押し付けて……挙句、婚約破棄などという事態を招いてしまった。全て、私の責任だ」
「どうか、頭を上げてくださいパトリック様。それに……私は今の生活も悪くはないと思っているのです」
私はルーカスと婚約してから幸せではなかった。けれど今はもう違う。私が本心からそう言っているのが伝わったのか、ゆっくりと彼が顔を上げ、こちらを見た。
「その、こんなことがなければ料理を覚えようなどとは思わなかったでしょうし……こうやって、パトリック様とゆっくりお茶を楽しむことなどなかったでしょうから」
「そうか。……気を遣わせたな、済まないね。ならば、また来てもいいだろうか」
こちらを見ているパトリック様の目に、ひどく優しい色が浮かんだ。気のせいか、親しみや慈しみさえ感じられる、そんな目つきだった。
「はい、いつでもお待ちしています」
彼のそんな目に心が温かくなるのを感じながら、私は心からの笑顔でそう答えた。