前編
「ルーカス様、今、婚約を破棄するとおっしゃいました?」
ある日突然、私――公爵令嬢シャーロット・ベルン――は、婚約者である第一王子ルーカスに呼び出された。嫌な予感を覚えつつも顔を出すと、彼はいきなり婚約を破棄する、と堂々と言ってのけたのだ。自分は正しいことをしているのだ、彼は本気でそう信じているように見えた。
「あ、ああ、そうだ、シャーロット。私はようやく真実の愛を知ったのだ。それもこれも、みなこのアデレイドのお陰だ。こんな思いを抱いてしまったからにはもう、私は君を伴侶とすることはできない」
けれど私がまっすぐに見つめると、彼はいつもの頼りない表情に戻り、目を泳がせた。その横には、金色の巻き毛を長く垂らしたドレス姿の令嬢がにんまりと笑いながら寄り添っている。まったく、嫌らしいことこの上ない笑みだ。
ああ、とうとうよその女に引っかかってしまったか。それが最初に浮かんできた感想だった。
彼は第一王子であり、おまけに見た目も悪くない。柔らかな暗い金髪と深い琥珀色の瞳が優しげな印象を与える好青年だと誰もが口を揃えて言うだろう。そう、彼は見た目だけなら文句なしなのだ。
しかし彼は、良くも悪くもお坊ちゃんで、見事なまでの箱入り息子だったのだ。良く言えばお人よし、悪く言えば極度の世間知らず。それが私が彼に下した評価だ。
中身は空っぽで見た目は麗しい第一王子。そんな彼は当然のように様々な人間に狙われ続けていた。
娘を王妃にすることで王家を乗っ取りたい腹黒貴族、そして玉の輿を狙う令嬢たち。そういった人間からすると、彼がお人よしだということは付け入るための絶好の隙でしかなかったのだろう。
そんな連中から彼を守るための人間が必要だ。王や重臣たちは彼が幼いころからずっとそう考えていたらしい。そうして白羽の矢が立ったのが、ほかでもない私だったのだ。
父が王国の財務大臣だったこともあって、私は幼いころから財務や政治に興味を持ち、周囲の反対を押し切ってそれらを学んでいた。お前が男であったなら、さぞかし良い大臣になれただろうに、と父はいつも悔しがっていたものだ。
私がルーカスの婚約者に選ばれたのは、どうやらその知力と根性を買われてのことらしい。それに家柄や年齢の点からいっても、私は彼と釣り合いが取れていたのだ。
当時十歳だった私は父と共に王のもとに呼びつけられると、その場でルーカスとの婚約を言い渡された。
その時のルーカスはただ無邪気にはしゃいでおり、ひどく幼い王子だなという印象しかなかった。彼が将来の夫となるのだと言われても、まったくぴんと来なかった。
あの時一番私の心に残ったのは、堂々としていながら謙虚な陛下の姿の方だった。
『君の肩に王国の未来はかかっている。どうかこれからあの子を支えていって欲しい』
陛下は私に目線を合わせるようにかがみこみ、そんな言葉をかけてくださった。そのことが子供心にもとても誇らしく、嬉しく思えたのを昨日のことのように覚えている。
それからは毎日が忙しくなった。王子の婚約者として学ぶべきことが少しばかり増えたが、そのこと自体はさほど苦にはならなかった。問題だったのは、ルーカスに群がる虫――すなわちルーカスに言い寄って来る数多のご令嬢――を追い払うことの方だった。
婚約者が決まればそういった連中もおとなしくなるかと思いきや、彼女たちの魔の手はまったく衰えることを知らなかった。私の目を盗んでルーカスに近づき、どうにかしてたらしこもうとあの手この手を尽くしてきたのだ。
その辺を歩いていただけなのに真剣な顔をした令嬢たちに囲まれてしまう、なんていうのも日常茶飯事だった。彼女たちはルーカスをお茶会や舞踏会に誘おうと必死に訴えかけてくるのだが、ルーカスはいつもなんの返事もせずにあいまいに微笑んでいるだけだった。
だから、心を鬼にして彼女たちを追い払うのはいつも私の役目だった。そうやって声を荒げるたびに、自分が嫌な女になったような気持ちになるのが悲しかった。
他にも、ルーカスのもとには毎日のように贈り物が届けられていた。しかもそのほとんどは令嬢の手作りという触れ込みのお菓子だったのだ。まずは胃袋をつかむ作戦だったのだろう。
お陰で毒見役は毎日大忙しで、私はよく彼の愚痴を聞かされる羽目になっていた。もっとも彼によると、どうやらこれらの菓子は全て、令嬢ではなく専門の職人が作ったもののようだったが。
王妃の座に手が届かないならせめて側室でも、と考える者も多かったらしい。そういう手合いはなりふり構わずルーカスに迫ってくるので危険度が高かった。色仕掛け、実力行使、とにかく既成事実を作ってしまえという捨て身の突撃。
そのせいで、私には毎日ルーカスの寝所を改めるという新しい仕事が追加されてしまったのだ。高貴な令嬢が潜り込んでいた場合、使用人では手が出せないが、私の立場であれば堂々と侵入者をつまみ出せるからだ。こんな形でよその令嬢の裸体を見ることになるとは思わなかった。
そしてそういった連中からすると私は色々な意味で邪魔でしかなかったようで、私は毎日のように様々な嫌がらせの嵐をお見舞いされていた。
すれ違いざまに転ばせようとしてくるような子供じみた嫌がらせもあった。罵詈雑言を書き連ねた手紙をよこされたこともあった。一つ一つはささいなものだったが、とにかく数が多かった。あまり大掛かりな嫌がらせをして私が父や陛下に泣きついてはまずい、おそらく仕掛けてきた側はそう考えていたのだろう。
私はそれらの嫌がらせを全て無視することに決めたのだが、それでも少しずつ心がささくれだっていくような感覚は消えることがなかった。父や陛下に迷惑をかけたくはないし、肝心のルーカスはさっぱり頼りにならない。
彼と婚約してからの七年間、私は必死で令嬢たちを排除し続けてきた。ルーカスの身辺に目を配り、彼が私の知らないところで他の令嬢と二人きりにならないように注意した。彼のもとに届く手紙も、全て私が先に目を通し、不適切なものは彼の目に触れないように廃棄していた。
お陰で、自分に向けられた悪意にまで対応している暇がなかった。気がつくと社交界には私の悪い噂が乱れ飛んでいたが、私はそれを放置しておくことにした。父や陛下はそれが真実ではないことを知ってくれていたし、正直そこまで手が回らない。
ルーカスのことはこれっぽっちも愛せなかった。彼の方が一つ年下ということもあって、手のかかる弟のようにしか思えなかった。だから私がこうやって苦労しているのは彼のためを思ってのことではなかった。全ては王国の未来のために。あの日、私に声をかけてくれた陛下の姿がよみがえる。
しかし、私のそんな鉄壁の守りも、とうとう突破されてしまったようだった。
私は改めて目の前の二人を見る。どこか緊張した面持ちのルーカスと、その横で勝利の笑みを浮かべているアデレイド。あどけなく幼いその顔に、そんな笑みはひどく不釣り合いに見えた。
確か彼女は、最近やたらとルーカスに近づこうとしていた令嬢の一人だった。ものごとを深く考えない、その場の勢いと本能だけで動く類の人間だ。そして、私とは真逆の、思わず守ってやりたくなるような女らしい令嬢。おそらく、ルーカスはそんなところに惹かれてしまったのだろう。
私が頑張れば頑張るほど、ルーカスの心は離れていく。愛して欲しいなどとは願わないけれど、こんな仕打ちを受けるほど疎まれるのはさすがに辛かった。
こんな目に遭うために、私はずっと気を張って、嫌がらせに耐え続けてきたのだろうか。私の今までの努力は、いったい何だったのだろうか。
「……分かりました、それでは好きなようにしてください。私は身を引きます」
気がついたら、ため息と共にそんな言葉が口をついて出ていた。私には王国の未来がかかっている。けれど、この王子のお守りはもう疲れてしまった。もう、嫌だ。
これだけ頑張ったのだし、もう楽になっても許されるだろう。きっと父は激怒するだろうし、陛下は落胆されるだろうけど。そう思うと、とても胸が痛かった。
婚約を破棄されたこと自体はどうでもいいと思えるのに、陛下をがっかりさせることが悲しいだなんて、妙な話だと自分でも思う。
アデレイド、あなたはルーカスに迫る魔の手を全て払いのけられるの? せいぜい、お手並み拝見といきましょうか。
挑発半分同情半分のそんな捨て台詞を決して口に出すことなく、私は二人の前からそっと立ち去った。




