朝は誰にでも平等にやってくる
レヴィルヴィアと朝陽のいさかいから三日後、暁李と尊の関係にヒビが入った二日後の休日に、部屋へ「朝ごはん」とサンドイッチを届けに来てくれた清継は、待ち構えていた暁李が口にした言葉に目を丸くした。
「小学校の家庭科室……?」
はい、と暁李は頷いた。「昨日、電話で確認しました。午後、児童が帰った後であれば使っても構わないと」
昨日の昼間、バスが無人になったタイミングで暁李がアイディアを口にしたときには、レヴィルヴィアも今の清継と同じ顔になっていた。このこどもは「……それで万事上手く行くと申すのか……」と懐疑的で、もちろん暁李自身も「わからん」と答えるほかなかったのだが。
しかし、「やるかやらないかのどっちかだ。お前があんまり気乗りしないなら」やらなくていい、という言葉を最後まで聞かずに、
「やる」
とレヴィルヴィアは答えたのだ。
「びっくりした」
清継はサンドイッチを頬張る二人の顔を順に見て言った。「暁李が考えたの? ……えー……、ああそう……、へえ……」あんまりその辺りをいじらないで欲しい、と思いながらベーコンとオムレツとレタスの挟まれたサンドイッチを食べ終えてブラックコーヒーを一口啜った暁李のとなり、
「こやつひとりでは、……んむぐっ」
口のなか一杯の状態で喋ろうとして危うく喉に詰まらせかけたレヴィルヴィアが、ぬるめに入れたカフェオレで危ういところ流し込む。「ぜえ……、ぜえ……、し、死ぬかと思うた……、なんじゃったか……、おおそうじゃ、うむ、こやつひとりでは上手く行かぬし、妾も正直自信はない。それに……、撮影に必要なカメラはキヨしか持っておらぬ」
「まあ、言ってくれればいつでも貸すけどね」
ブラックコーヒーを口にする、自分の淹れたものではあるが、苦いし香りも全然しない。休みの日にわざわざ檜垣まで出ていって買うのが億劫で、「さはらストアー」で売っている安物で済ませてしまうからだが、
「じゃあ……、これから一緒に檜垣行く?」
今日はついでに買ってこようと思い決める。
「荷物持ちが付いていったほうが先輩も色々買えるでしょう」
鮒月バスのスタッフの胃袋を支えるこの男は、休みのたびに檜垣まで買い出しに行き、持って帰れぬぶんは配達してもらっているのだ。これは確度の高い想像であるが鮒月に咲く花の匂いは、山を越えた檜垣、あるいは馬連内にも時折馨り、嗅いだ人間の心をざわつかせているはずだ。
レヴィルヴィアがディーゼルカーに乗るのは初めてのことだ。しかし、バスより少々スケールが大きくて速いぐらいで大差はないと、彼女はそれほどの驚きも見せなかった。女のような男と、特徴のない男と、メイド服の金髪少女、……トンネルに入って窓に映っている光景はずいぶん不思議で、通路を挟んだ反対側の席に座った老夫婦がいぶかしむ視線を送っていた。
「……暁李たちが驚いてくれる顔を見るのが嬉しくってね。まだ両手があったころは、毎年いろんなのを作ったんだ」
清継は優しい記憶を失った右手に乗せて慈しむ目で言った。「二人とも、野球が好きだから、野球ボールを象ったものを作ったこともあったね」
「やきう、というのは球を使った運動の一種じゃな。面白い動画配信をしておる者の中に、元やきう選手と申す者がおったのう」
元野球選手までそんなことやっているのか、暁李の顔に浮かんだ驚きを見て、
「珍しくないよ、芸能人も多いし」
清継が教えてくれる。「元々は無名の配信者が動画で評判になって有名になっていくパターンが多かったけど、今はテレビの視聴率も落ちてるし、そっち方面の業界の人たちも動画配信で顔を売っていくっていうルートが確立されてる。……っていうか、本当に暁李なんにも知らないんだね……」
「妾も呆れた。こやつはこの世界の人間なのに、この世界の面白きものをぜんぜん知らんのじゃ」
「そういうところあるよね……。もったいない」
別に知りたくないと思っていたわけでもないのだ、そういうものがあるのだなという情報が耳目に入ってきても、深く知ろうとは思わなかったというだけ、怠惰さの結果である。
「人間も植木の土と同じでさ。乾いたらそこに植わってる木もすぐ枯れちゃう」
トンネルを出た。檜垣の「街並み」と呼ぶには東京を知っている暁李にはうら寂しく映るが、「おおー……、家がいっぱいじゃ! たくさんの人間が住んでおるのじゃなあ」レヴィルヴィアは見開いた目を輝かせる。窓にかじりついた向かいの少女をいとおしげに見詰めながら、
「暁李はまだ若いんだ。いろんなことをすればいい、思うように生きていいと思う。情報だけじゃなくて、感情も……、いっぱい吸収して、自分に水をあげて、瑞々しく生きていいんだよ。現状に満足なんかしないでさ」
清継は言った。暁李は黙ったまま、レヴィルヴィアを見つめる清継の横顔を見る。あなただってまだ若いではないか、見た目で言えば俺や尊よりももっと若いではないか。
暁李の目には清継は、奇しくもレヴィルヴィアがいつだったか言った通り、幸せそうに見える。利き手を失った人間が幸せになってはいけないなどと言うつもりはない。ただ、右手を失くして以来、つまり暁李が鮒月に戻ってきて以来の清継は、レヴィルヴィアがすぐにそう思った通り、足りぬものなど何もないという顔でいる。暁李の父を、遡れば尊の兄を父を、そして彼らの血を引く暁李と尊のことだって、幾らでも恨んでいい立場にありながら、俺は悪い夢を見たことが一度もないんだという顔でいつもいる。レヴィルヴィアの世話を焼き、朝陽を思いやり、尊の、暁李の、向ける湿っぽい物思いを背負いながら、……人を植木と表現するなら、大切な枝が少し折れてしまっても平気な顔で、美しい花を毎日咲かせている。
ディーゼルカーが檜垣に着いた。
「……レヴィルヴィアと朝陽は、きっと仲直りできるよ」
暁李の耳元で、清継が囁いた。「でも、暁李も尊と仲直りしなきゃダメだよ。絶対に」
はい、と答える声は自覚できるぐらいに弱々しく自信を喪失していた。レヴィルヴィアと朝陽を仲直りさせるアイディアの実現にこうして躍起になっているのは、自分の愚かさゆえに尊の心へ深い傷を負わせたという事実から束の間目を背けていられるからかもしれない。
しかし、何と言ったら許してもらえるのか、元の通りの暁李と尊に戻れるのか、これに関してはまったくのノーアイディアなのだった。
暁李の右側から背伸びをした清継が、左手をぐいと暁李の頭に回して、
「ちゃんと仲直りしなかったら、今年は二人にチョコレートあげないからね」
耳を噛むのではないかと思うほど近くから、珍しく低い声で言った。身を強張らせた暁李の鼓膜にからかいの笑みを響かせた。
「ほらヴィヴィ、足元ちゃんと見て」
ディーゼルカーとプラットホームの段差に躓きかけた少女にかける声はどこか祖母のように柔和な、中性的なものだ。レヴィルヴィアの細い胴を支えるのではなく羽織ったコートのフードを引っ張るというやりかたで転倒を回避させた暁李は、
「乱暴……」
「ぬぐうう、首が締まったではないかぁ!」
二人から苦情を言われた。