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愚か者二人の夜(後)

「……そなたたちは妾を拾うてくれた、妾をこうして、そなたらの暮らす場所にこっそりと置くことを認めてくれた。ゆえに……、妾はそなたたちを、大事に思うておる、そして……、そなたたちの暮らしに少しでも役に立ちたく思うておる……。こんなつもりではなかったのじゃ、こんなはずではなかったのじゃ、妾は……」

 レヴィルヴィアの涙腺の蛇口は緩みっぱなしだ。本来凛々しい形の目から、またぽろぽろと大粒の涙が碗に零れ落ちた。

 暁李は昨晩のレヴィルヴィアの言葉を聞き流していたわけではない。動画配信を始めたと知ったときには唖然としたし、彼女の考えを聴いても結局のところはお前がやってみたいと思ったからだろ、という程度の考えしか抱かなかった。

 そうだったとして、清継は「いいよ」と言っただろうか? レヴィルヴィアには優しく甘く美しいお兄さんあるいはお母さんである清継ではあるが、言うまでもなく彼もまた大人であり、とてもそうは見えないものだから「先輩」と呼びつつ暁李もそのことを忘れがちであるが、二歳年上である。レヴィルヴィアという異界の住民を保護するに当たり、暁李にその身柄を委ねるという判断に関しても深謀遠慮の末のことであろうし、レヴィルヴィアの動画配信についても考えなしに許可し自らカメラマンを請け負うはずがなかったのだと、暁李は今更気が付いた。

「妾は……、朝陽のように有能ではない、そなたや尊のようにバスを運転できるわけでもない、キヨのようにごはんも作れぬ……、魔の国の生まれのくせにろくすっぽ魔法も使えぬ……、じゃが、のう……、妾にも、出来ることがあると思うたのじゃ、そなたたちのために、『ありがとう』の言葉よりももっと、力を尽くせることがあると思うたのじゃ……、そもそも妾は『ありがとう』だってろくに言うたことがない……!」

 レヴィルヴィアはあの動画に、本気の願いを籠めたのだ。

 経緯はどうあれ、自分に力を貸すことを約束した鮒月バスの面々に報いるため、鮒月バスの経営に少しでもプラスになることはないかと知恵を搾って見付けたのが「動画配信」だったのだろう。

 清継はそれを理解し尊重したからこそ、彼女に付き合うことにした。暁李にはよく判らないことではあるが、チャンネルの? 登録者数? が一般平均よりもずいぶん勢いよく増えた、……らしい、ことが、レヴィルヴィアにはどれほど誇らしく嬉しいことであったろう。

 朝陽に「くだらない」と言われることなんて、想像は及ばなかった。

「ああ……、そうか……、そういうことか……」

 全てこの少女が、よかれと思ってしたことなのだ。結論から言えば「余計なこと」としか表現し得ない言葉を朝陽に向けたのは、それを伝えてやることが朝陽のためになる、尊のためになる、会社のためになる……、そう考えたからだ。男同士であろうと兄と弟であろうとおかしくなどない、思いのまま素直に言葉にしたなら、きっとそなたの兄はそなたの心を何らかの形で受け止めてくれるはずじゃ!

 動機に毒がなかったとしても、言葉が人を傷つけ、思いもよらぬ深刻な事態を招く懸念に思いが至らなかった。確かにレヴィルヴィアは「ぽんこつ」であるが、暁李にはもう彼女を責める気持ちはまるで浮かんでこなかった。少なくとも、挑発して傷を負わせてでも人の心を思うように操作しようとした自分にはそんな資格はない。

 レヴィルヴィアをぽんこつだぽんこつだと馬鹿にしていた自分の、何と愚かなことか。自分自身がレヴィルヴィアの真心と向き合いもしないで、「朝陽と向き合え」などと、どの口が言うのか。今すぐ自分の頭を蹴っ飛ばしたい、脊椎から頭蓋骨がすぽんと抜けて頸骨を尾のようにひらひらさせながら湿原の雪に埋もれてしまいたい。とても大きなヴォリュームで叫んで自分の口にした言葉を全部塞いでしまえたらどんなに楽か。

 そこまで自暴自棄で、もうどうしようもない気持ちにならないだけ、

「ひにゅっ……」

 お前はまだ偉い、と暁李は彼女の髪を撫ぜた。日々にそうすることを求められて、応えて来たから、この少女の金髪の触り心地が普段と違うことには気付ける。

「……お前、昨日から風呂入ってないだろう」

「ん、んう……。ガスとかそういうの、触れてはならぬとそなたが申したのじゃ……」

「ああ……、だからエアコンも点けなかったのか」

 別に汗臭くも埃っぽくもなかったが、こどもの心が冷たく縮こまったままでいるのを放っておいてはいけない。尊敬する男は今夜もこの少女を風呂に入れなかったと知ったら、きっと暁李を責めるだろう。

「風呂沸かすから入れ。でもって、温まったら風邪ひく前に寝ろ。あと、あんまり目ぇ擦るな。……わかった?」

 暁李を見上げて、ぐし、と鼻を(すす)って、腕で顔をぐいと拭って頷いた。まったくもって「魔皇女」の名が泣くような泣き顔であるが、

「いい子にしてれば、きっといいことがある」

 そういう気休めを言わないではいられない気持ちに、暁李はなってしまった。悪いことなんて何ひとつしていないのに、……清継を見てしばしば思う、けれども、そういうのは「理不尽」とでも呼べばいい。

 浴槽に栓をして湯を注ぐ音を聴きながら、こどもに降る痛みの雨が早く止んだらいいと暁李は思った。俺のこそ、ただの自業自得、大人なのだからきちんと自分で後片付けをしなければいけない。レヴィルヴィアが朝陽に許されることを願うとき、暁李は柄にもなく自分を棚に上げて、背後でくちゅんとくしゃみをした少女に「お前は部屋で待ってろよ」と言う声はやけに優しく響いてしまった。

 悪いことがあった日の夜の長いことを、まだ幼いレヴィルヴィアはとくと思い知ったに違いなかった。知らないよりは知っておいたほうがいい、知らないまま大人になるよりは。ただ、辛いな、辛い、つらい……、身を縮ませて泣いているよりは、顔の角度を一度でも上げることで見えるものを見ようとしたほうがいい。レヴィルヴィアは風呂に入っている間も暁李が側にいることをねだったし、自分が風呂から出たあとも寒々しい洗面所にいた。

 布団に並んで横たわっても、ずっと眠りたがらなかった。眠気の殻と膜に覆われて、自分のネガティヴな言葉の響き具合を聴いて、一片(ひとひら)の益もなく貴重な睡眠時間を浪費することに、暁李もたっぷりと付き合った。背中に向けてずっと聴いているだけではなく、珍しくレヴィルヴィアに身体を向けて憂鬱さが緞帳(どんちょう)のように垂れ込める顔と向き合うこともした。暗い部屋の中でそうしていると、世界の底に二人だけで落っこちているみたいで、自分たちだけの誰もが九十度曲がった世界を正しく歩んでいるような錯覚に陥る。

 レヴィルヴィアは何度も繰り返し言っていた。

「妾は、朝陽に嫌われとうない。妾は……、朝陽を尊敬しておる。それでも……、朝陽のようには出来ぬゆえ、少しでも役に立ちたいと思うて……」

 その思いは間違ったものではない、そして、冷静になって考えてみるに、暁李にはレヴィルヴィアのアイディアがそれほど間違ったものではなかったのではないか……、という気もしてくるのだ。長い長い思考の彷徨を経た末にようやく規則正しい寝息を立て始めたレヴィルヴィアを起こさぬように布団から抜け出して、底冷えするトイレで手に白い息を吐きかけながらスマートフォンのブラウザを立ち上げ、動画共有サイトを開く。レヴィルヴィアの公開した動画を改めて見てみて、……まあ、素人の作ったものと考えればよく出来ているのではないか、という気はする。多少贔屓(ひいき)目もあるかもしれないが、レヴィルヴィアは少々ツリ目ではあるが人間として可愛い相貌をしているし、浮かべる表情はこどもらしく色とりどり鮮やかで、人目を()き付けるものだ。動きの一つひとつに愛嬌もある。

 動画にコメントが寄せられていることに暁李は気付いた。なるほど、視聴者はこういう動画を見て、配信者に対して言葉の形でリアクションを返すのだ。それらが全て好意的なものであったことに何となく安堵するとともに、「遠いけど行ってみようかな」なんて言葉に心底驚く。それはほんの何時間か前に付けられたコメントであって、レヴィルヴィアはまだ気付いていないだろう。思わず咥え煙草で便座から腰を上げて教えてやろうかと思ってしまった。

 視聴者のどれほどが実際に鮒月に足を向けてくれるかは全く覚束ないが、まずもってこんな知名度の低い田舎を知ってもらえたというだけで価値がある。暁李はこの辺りのことに全く詳しくないが、レヴィルヴィアをきっかけに検索エンジンで「鮒月 行き方」とか「鮒月 おみやげ」なんて言葉を入力した人間がちょっとぐらいはいるかもしれない……。

 レヴィルヴィアはぽんこつであると思う。一方で彼女が憧憬を抱く朝陽は、極めて有能である。ただそれは、鮒月バスの仕事の手伝いに費やした時間の量の違いであって、今の彼女が同じことを出来るはずもない。もちろん「人手」という点では大いに助かってはいるのだけれど。

 レヴィルヴィアの真心が本物であるならば、それは()めるべきではない、……清継はそう判断したのだ。だとしたら、主体的ではないようだが暁李もその判断に従うほかない。その結果として招かれたこの事態を悲劇のままでいさせるわけにはいかない。

 けど、どうするかね……。

 スマートフォンから顔を上げ、煙を吐き出して、……何の益もなく夜更かしをしているうちに、なんだか小腹が空いてきた。馬鹿げた話ではあるが、何かで塞いでさっさと寝てしまうべきところ、そろりそろりと台所へ行って、戸棚を漁って、チョコチップクッキーを見付けた。ヴィヴィに、と清継がくれたものであるが、一枚ぐらい盗み食いしたって咎められることはないはずだ。清継は尊の父が経営するこの村のスーパーには近付かないから、檜垣で買ってきたものであろう。台所の床に屈んで、個包装されたそれを音を立てないように口に放り込み、唾液でふやかしながらゆっくりと咀嚼する。

 清継にも指摘された通り、普段甘いものはあまり口にしない暁李である。しかるにそれは、しっとりとしていて、ちっとも期待していなかったのに美味である。バターの風味が効いたクッキーに、カカオの香ばしいチョコチップが歯応えにアクセントを加える。もう一枚、……もう一枚ぐらい大丈夫かな、と、結局残っていたものを全部平らげてしまった。おじやだけでは大人の男の胃は満ちないのだから、これは仕方のないことである。

 歯を磨いて用を足して、布団に戻る。暁李のどこからか甘い匂いが漂ったのを感じたのだろうか、

「んふ……ぅん」

 身じろぎをしたレヴィルヴィアの腹がぐーと鳴った。このこどもはチョコレートが大好きだ、……一口かじるだけで、胸のあたりがぽあっと温かくなるような。

 夢の中に甘いチョコチップクッキーが出てきたのなら、それは決して悪いものではないはずだ。誰にも責任の取れない今夜の少女の夢が、少しでも甘くて温かいものであったなら……。

 考えながら目を閉じて、暁李はなぜか、清継が初めてチョコレートをくれたときの夢を見た。

 尊と二人で呼び出されて、「あげる」って差し出されたチョコレートは手作りで、義理にしては思いが籠っていた、高校三年の二月十四日の出来事だ。暁李は東京への進学を決め、尊は鮒月バスへの就職が決まって、清継はそのときまだ働いてはいなかったはずである。

 え、え、え、え、尊と二人で、互いの顔と清継の顔を、……同じ男でありながらこんなに顔の形って違うもんなのかという再確認もしつつ、何度も往復する二人を(わら)うことなく、美しい人は言ったのだ、「迷惑かな」と。

 二人は慌ててそれを両手で受け取り、無意識のうちに自分の胸へ押し当てていた。頬も熱ければ喉も胸も熱い。チョコレートを食べるまでもなく手にしただけでこんなに甘い気持ちになるなどとは、想像したこともなかった二人だった。

 俺たちはなんて幸せなんだろうと、尊と何度も言い合った。同じ相手に恋をして、その恋が涙に濡れて破れて、ぼろぼろになってなお、今でも二人で清継を愛している。

 暁李の閉じた瞼の内側で涙が(ふく)れた。

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