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愚か者二人の夜(前)

 バスを車庫に寝かせて二階まで上がったところで、暁李は少し迷ったが、結局四階の自分の部屋まで上がった。三階の様子を伺ったが、尊と朝陽がいるのかどうかは判らなかった。尊とはあのいさかいのあと、もちろん運行業務で何度も顔を合わせたが、視線が交わることは一度もなかった。

 ドアを開けて、思わず飛び退いた。さすがに尻餅をつくには至らなかったが、……暗い玄関で、メイド服のレヴィルヴィアが清継の黒いコートを肩に羽織って、靴を履いたまま上がりかまちに座って膝を抱えていた。闇に、彼女の金髪が薄ぼんやりと浮かび上がっている。

 この少女は暁李と尊のいさかいの場に、メイド服姿でやって来た。結局清継に連れられて帰ったあと、こうして暁李が帰ってくるまでの間、レヴィルヴィアがどんなことを考えて過ごしたのか、……少し前まで清継と一緒にいたのか、それともずっと一人でこうしていたのか、暁李には判らない。ただ、この少女は昨夜もろくに眠れてはいないはずだ、心労も(かさ)んだはずである。暁李の帰りを待っている間、眠りに落ちてしまったのだろう。

「……レヴィルヴィア」

 灯りを点けて声を掛ける。抱えた膝に埋めていた頭が僅かに反応し、おずおずと顔を上げる。振る舞いはどうあれ顔の形はいい、ということは暁李も認めるところではある。しかし今は泣き腫れた瞼が美しさを曇らせてしまっている。しかし、自業自得のばかなこども、という言葉は浮かんでこなかった。暁李を見るなり、少女は眉間にしわを寄せ唇をへの字に曲げて、涙の発作に押し負ける。

 こういうとき、幼いこどもにどうしてやればいいのか、暁李は判らない。清継だって同じだろう。しかし彼はそれでも昼間いっぱい、この少女を根気強く諭したに違いない。彼の言葉が胸に刺さったからこそ、レヴィルヴィアはあのとき暁李と尊のもとへやって来たのだ。自分の愚かさを認め、朝陽が帰ってくる前に、まず尊に謝ろうと思って。

 ひとまずドアを閉めて、

「寒いだろ、ここ」

 高いところから声を降らせてみて、違う、と考え直す。「……どれぐらい前から待ってたんだよ」と、膝をついて、うっかりスカートの中が覗けてしまいそうになって、慌てて視線を泣き顔に固定する。ただ、彼女の膝に絆創膏が貼られていることには気付いた。清継が手当てしてくれたのだろう。

「妾は……、妾はっ……」

 こどもに触れたことがない、ということは、その泣く顔、声に触れたとき、こんなにも悲しい気持ちになることを知らなかったのと同じ意味である。

「……妾は、もう、わからぬ……、わからぬ……、どうしたらよいのじゃ……、朝陽を、傷つけて、……妾のしでかしたことのせいで、仲良しの、そなたと尊まで……」

 一人で暁李を待つ時間、眠りに落ちる一秒前までずっと、この少女は深い自責に駆られていたに違いなかった。暁李は尊との口論の後で、最初の一時間はハンドルを握りながら強い苛立ちを抑えて慎重にアクセルを踏み込まなければならなかったが、次の一時間には心がすっと冷たくなって、自分の言いかたのあまりに傲慢であったことがサイドミラーに映っているところを見せつけられた気になった。朝陽が朝と同じ冷たい顔で乗車し、尊の車に乗り移っていく硬くて細い背中を見送るときには、ほとんどもう何もかもが嫌になって、……あとの数時間は、ひたすらに後悔である。

 二十七才が喉に異物感を覚えるぐらいのストレスを覚えたのである。小さなレヴィルヴィアが一人でどれほどの痛みと戦っていたかを想像し、また悔恨の果てに在ることを意識すればこそ、彼女のいちばん喜ぶことをしてやろうと思う自分の心の動きはとても自然なはずだ。

「さと、り……」

 尊に「朝陽と向き合え」と言った暁李が、レヴィルヴィアときちんと向き合うのはこれが初めてのことだった。金色の髪を撫ぜて、

「しんどいな」

 と呟くとき、頬には苦くて、しかし少しだけ柔らかい笑みが浮かんだ。「きついな。……でも、お前だけが悪いんじゃない」

 レヴィルヴィアは「魔皇女」である、例の勇者が現れるまでは、さぞかし優雅な暮らしをしていたのだろうし、物怖じしない性格と奔放な言動からも、だいぶ甘やかされて育って来たらしいことは伺える。同じぐらいの歳の異性との付き合いかたに不馴れであったことは想像に難くなかったし、きついことを言われて咄嗟(とっさ)に「妾は悪くない!」と逆上してしまうことは、招かれ得る悲劇だったかもしれない。

 結局のところ、こどもなのだ。こどもが側にいるのだ。

「さとり……、さとり……っ」

 行儀もなければ遠慮もなく抱き着いてきたレヴィルヴィアをそのまま抱き留めることは容易かった。片手で抱き上げて、靴を脱がせ、自分のスニーカーは足だけで脱いで部屋に上がる。レヴィルヴィアの身体は小さく軽く、そして冷たかった。

「飯まだだろ」

 部屋のエアコンを入れてレヴィルヴィアを下ろし、手洗いうがいを済ませてから湯を沸かす。灯りを点けても何となく薄暗い部屋に立ち尽くすレヴィルヴィアは、普段の偉そうな態度からは想像もつかないほど頼りない。

「俺も腹減ったから、何か食おう」

 清継のところにいれば尊と朝陽が来るかもしれないと考えたこの少女は、夕飯前からこの部屋で待っていたのだろうと暁李は想像した。今更のように思い出してスマートフォンを取り出せば、やはり清継から、レヴィルヴィアがまだ夕食を食べていないこと、朝も昼もほとんど食べなかったことが書かれたメールが届いていた。

 休日の朝昼を除けば食事は清継に任せきりである。たまに作ってやっても「キヨの作るのに比べると……、なんというかこう……」と、多少は濁すものの面と向かって言うのが極めて感じが悪いのだが、空腹が多少のスパイスとして機能してくれればいいと思う。

「……妾は」

 台所までやって来たメイド服の少女は、悲しそうな顔で言った。

「キヨに言われるまで何も判っておらなんだ……、人の心の、細かな動きというものを、人の心の柔らかさを……、一度たりとも想像したことがなかったのじゃ……」

 恐らくそれは、生まれ育ちに根拠を求めるまでもないことだ。こどもである以上、仕方のないこと、……そしてもう立派な大人でありながら、尊とのコミュニケーションを誤った自分はもっと愚かだと暁李は思う。鍋にコンソメの顆粒を沸かす背中で冷凍していた冷ごはんの解凍が終わった。それからネギとベーコンを切り始める。段取りが悪いな、と思う。先輩だったら飯の解凍を待つ間にまな板と包丁を洗ってしまうところまで済ませているのではないか。もっとも、今の清継にそれが可能なのは、側で朝陽が如才なく彼の右腕の働きをこなすからであり、朝陽が中学に上がったあと誰が清継の「右手」になるのかということも喫緊の課題であることまでは、暁李の考えは及ばなかった。

「今すぐにでも朝陽のところへ行って、……どんな形でもいい、妾がどれほど酷いことを言ったか、あやつに謝りたく思っておる……。しかるに……、キヨはそれはならぬと言うのじゃ……」

 歩み寄ったレヴィルヴィアは、恐らく手伝おうとしているのだと思った。朝陽がそうするところを見たことがあるのかもしれない。暁李が使った包丁を、スポンジで洗おうとする。しかしながら、白いメイドグローブを外しもしないでそうしようとするのを見れば、そのあまりの考えの足りなさに、そして何より怪我をする懸念に、止めないわけにはいかなかった。

「いま朝陽に何言ったって耳貸してもらえないよ。お前の顔見たら、きっとまた怒る。先輩はそれが判ってるから止めたんだ。それに……、多分だけど、お前もまだあいつに何て謝ったらいいか(まと)まってないだろ」

 卵を割る。意識の半分をレヴィルヴィアに傾けていたものだから、殻が崩れて卵液に入ってしまった。既に沸騰したコンソメの中でふやけはじめた米を気にしながら、どうにかしてつまみ上げる暁李の手元を、レヴィルヴィアは何が出来るわけでもないのに弱りきった顔でおろおろと覗き込んでいる。

「妾は、……朝陽と喧嘩はしとうない。ほんとうは……、ほんとうは、あやつともちゃんと、仲良うしたいのじゃ。そなたと、尊が仲良しであるように……」

 溶き卵を入れながら、

「俺と尊が……、仲良しか」

 一瞬レヴィルヴィアに目を向けた暁李の手元は狂った。「暁李!」とレヴィルヴィアが声を上げる。鍋から卵液がはみ出ていた。

「……だから……、妾のせいでそなたと尊が仲違いするなど、耐えられぬ……」

 膝を擦りむいたときに感じたよりも強い痛みが蘇ったのか、また心の底から悲しそうな表情になった。

「あれは俺が余計なこと言い過ぎたからだ、お前が悪いんじゃない。……ほら出来たぞ」

 レヴィルヴィア用の茶碗というものは、この部屋にはない。だから仕方なく、味噌汁を飲むための碗によそって、蓮華(れんげ) を差して。清継の部屋では椅子でテーブルを囲んで食べるが、この部屋にあるのは小さなちゃぶ台が一つきりだ。「火傷するなよ」と暁李が言ったから、慎重にふうふう吹いてからそっと啜る。

 味についての文句は出なかった。少し薄味だったかな、とは思うが。

「俺も、……尊に謝んなきゃいけない。でも、何て言えばいいのかな」

「大人のそなたにも、判らぬのか……」

「ああ。……判らないな。俺は、……うん、俺はさ、あいつと、本当に『友達』なのかなって」

 レヴィルヴィアが怪訝そうな視線を向けて、

「……妾には、チェルニィしか友達がおらぬ」

 寂しそうにぽつりと呟いた。猫のぬいぐるみしか友達がいない、というのは必然、一人も友達がいないということを意味するに違いなかったが、暁李は敢えてそれを指摘はしない。国の長の娘の立場にある少女と気さくに心を通わせてくれる相手が望むべくもないものであったことは、暁李にも何となく想像できた。

 自らに照らし合わせてみれば、……先輩は、先輩だ、朝陽は尊の弟で、友達と呼ぶには歳が離れている。高校時代、大学時代の友人、前にいた会社の同僚たちとも縁が切れて久しいし、暁李の(そもそも使いこなせているとは言いがたいものであるが)スマートフォンの電話帳に載っているのは全て鮒月バス関係者の名前しかない。

 つまり尊のことを友達かどうかと疑い始めてしまえば、自分にはただの一人も「友達」がいなくなってしまうのだ。

「そなたは……、妾の夫じゃ。キヨも尊も、大人ゆえ……、きっと妾がどう思おうと、妾のことを『友達』とは思うまいよ」

 悲しげな、そして普段より少しばかり大人びて見える笑みが、赤みを取り戻した少女の頬に貼り付いた。

「しかるに……、朝陽は、妾と歳も近いし……、その、女子と男子という違いはあろう、それでも……、友達になれるやもしれぬと、妾は一人で勝手に思うておった」

 しょんぼりと話しながらではあるが、やはり腹が減っていたのだろう。「おかわりは」と訊いた暁李に、こくんと頷いた。下手くそなおじやであるとは思うが、少女の栄養になるものを作れたのならば酸素や水と同じく価値がある。少し冷めた二杯目も、するすると彼女の中へ収まっていく。

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