愚か者たち
お前は、馬鹿だなあ……。
という言葉を、ずいぶん長いこと言おうか言うまいか悩んでいる。レヴィルヴィアはまだ風呂も浴びていない。清継の部屋で浴びるべきところを三階の兄弟の部屋で要らぬ悶着を起こし、暁李に引っ張られて四階まで上がってきたものだから、もう寝る時間だと言うのにそのための支度はまるでせず、彼女は部屋の隅っこで膝を抱えてめそめそ泣いているのだ。
痛罵と呼ぶに相応しい言葉の礫をものすごい量、朝陽に浴びせられたのだ。どんな暮らしぶりであったかは知らないがそれでも「魔皇女」の肩書きを持つ少女にとっては初めての経験であったに違いなく、容赦のない言葉を受けて、
「ふめぇええええ……」
と無様にもその場で立ったまま泣き出したとしても無理からぬことではあったが。
しかし、悪いのはレヴィルヴィアである。暁李が駆け付けたとき、この少女はこう言っていたのだ。
「妾はそなたの気持ちを汲んでやる、んでもって、そなたの思いを応援してやるぞ、有難く思うがよい。ほれ尊、カタイこと言わずにじゃな、朝陽をぎゅーっとして、なでなでしてやるがよい!」
こんなことを言われて怒らない人間がいるものか。どんな酷いことを言われたって自業自得、人を傷付けたぶんだけ傷付いてなお埋められないのが罪というものであることを学べばまだよいが、
「妾なんも悪いこと言ってないのじゃ……」
なんて言っている。まるで解っていないのだ。同情の余地がない、大馬鹿者である。
「……明日は仕事しなくていい」
我ながら冷たいと思う声が出た。恨みがましい目を向けたレヴィルヴィアが、ぷいと顔を背けてまたぎゅうっと膝を抱えてすんすん鼻を鳴らす。
わざわざトイレにまで行って、思いっきり大きな溜め息を吐いた暁李のポケットにメールが届いた。清継からだった。
ヴィヴィには、明日俺がきちんと言って聞かせるから。
ああ、そうしてもらえるととても有り難い。これぐらいのこどもの扱いかたは、暁李には判らないから。
暁李は、尊と話をしてみて。
尊と?
尊はきっと今日ヴィヴィが言わなかったとしても、朝陽の気持ちに気付いていたはずだ。あの子はそこまで鈍くないから。
……そうだろうか? 暁李は少し考えて、そうかも知れない、いや、どうだろう、独力で判断が出来ないことに、少々驚きを覚えた。もう二十年以上側で過ごしているのに、尊がいまどんな気持ちでいるか、全く想像出来ない自分に気付いたのである。
ひとまず「わかりました」と返信したものの、……どう切り出すのが正解なのか、まるで覚束ない。ただ暁李がまずするべきことは、清継が可愛く思う少女が、風呂に入るかどうかはこの際どうでもいいから、
「寝ろ」
と部屋の隅に向けて布団をポイと投げ、自身はもう、横になる。レヴィルヴィアがやって来て、清継の命令に従って仮の夫婦となって以後、色々と困惑させられることはあったが、今日ほど彼女を迷惑だと思ったことはない。
少女は自分が暁李に優しい言葉で慰めてくれるとでも思っていたのだろうか? 不明瞭な怒りの声を上げて、それからまたひとしきりめーめーと泣いて、暁李は早く寝ようと決めていたこの夜、なかなか眠りに就くことが出来なかった。
せっせとバスを走らせる一日において、暁李と尊は日中、およそ九十分に一回、約五分ずつ、市役所前のバス停で出会いと別れを繰り返す。暁李がハンドルを握る小学校中学校周りの「1系統」は朝のこどもたちの輸送を終えたあとでガラガラだが、尊の「2系統」は病院通いの老人たちの待合室代わりになっている。病院内にも当然待合室はあるが、いつも混んでいて座れないという苦情を受けた(実際はそんなことはない、詰めて座ることを患者たちが嫌がるのだ)病院から要請されて、鮒月バスでは病院と乗客の双方からささやかな支払いを得つつ通院客に循環路線を乗り通すことを認めている。
よって平日のこの時間「2系統」の車内はコミュニティセンターとなっているのが常だ。花札をしている、小型テレビで競艇を見ている、編みものをしている、健康な老人たちをぐるぐる循環させているばかりの運転手は、市役所前に暁李のバスが姿を現したとき、ちらと窓から手を挙げて挨拶する。バスを停めて、
「ちょっと」
と声を掛けたら、スマートフォンを弄る手を止めて尊は出てきた。
市役所前のバス停脇の喫煙所、といってもコーヒーの粉の入っていた缶であるが、オフィシャルではない灰皿がある。暁李も尊もエキストラ・ライトな喫煙者であり、日に何度か顔を合わせてそこで煙草を吸い、重要ではない話をするのか常だ。
「……あの子は?」
ぼつ、ぼつ、ライターが躊躇っているのか、火を点けるまで時間を要した尊が訊いた。もちろん、まだ雪解けには遠い鮒月の二月、尊の喫煙者らしい声の掠れは周囲の雪に拭われていつもよりマイルドに響いたが、自分より長身の男からの視線はもう何年も、暁李に向けてどこかしら卑屈なものに感じられる。
「先輩のところに置いてきた」
「あー……」
バスに乗って登校する朝陽と、もちろん暁李は顔を合わせている。前ドアから降りかかった少年に、「おはよう」と言うよりも先に「夕べは悪かったな」と声を掛けたが、暁李の言葉は少年の細くて冷たい背中に跳ね返って手元に戻ってきた。そうだよな、俺が悪いわけじゃない、悪いと思ってもいない、のに「悪かったな」なんて言うのは間違っていたと反省しつつ、じゃあ俺はこれから尊と何の話をしようと言うのかと、自分でも今ひとつ判っていないのもまた事実。火を点した煙草の煙が二つ、沈黙の湿原方面からの風に糸を引いて流れる。
「……知ってたよ」
同じほどの息苦しさを、先に疎んじたのは尊だった。「知ってる、……知ってた。朝陽が俺のこと、兄貴じゃなくて男として好きでいるっぽいなってことぐらい」
尊の吐き出した息は、その量の割に煙が含まれていなかった。前夜からその言葉を肺に溜めていたのだろうか。
「俺自身……、あの男を自分の兄貴って思ったことねーし。……朝陽とは、逆の意味で」
学のことだ。暁李が清継に対して抱く申し訳なさを上回るヴォリュームで、もっとずっと長い時間に渡って、尊が抱き続けて来たことは想像に難くない。
「だから、朝陽がそう思ったとしたって、別におかしいことじゃないって言うか……、まあ、しょうがねーよなって思う部分はある。俺だって、朝陽のことはめちゃめちゃ可愛い」
尊の言葉はどこかしら遠く響く。彼自身のことなのに、自分ではない誰かを見下ろして言うかのようだ。
「お前はそれでいいんだろう。でも、朝陽はどうなる」
暁李の問いに、尊は答えなかった。
「俺は、朝陽がお前のこと好きになるの、すごく自然だと思うけど。……あいつの頭の真ん中には、いつだってお前がいるんだ。でもって、……お前は、先輩のことが好きなんだ」
尊は小さな声で「うん」とだけ答えて、まだ二口分ほどは残っていそうな煙草を雪の溜まった缶に押し付けた。
「でも、……朝陽は俺の弟だ」
尊は言った。そこに一縷の迷いもないとは思えない、歯切れの悪さが筋張って引っ掛かっていた。「朝陽は、まだこどもだ」と付け加えずにはいられなかったらしい背中が少し丸まっていた。よく咀嚼もしないで飲み込んだせいで胃が痛むかに見えた。
すっきりしない……、思いながら五十分余り、また暁李がハンドルを握っている間、尊はどんなことを思ったのだろうか。暁李が役場前に戻って来たとき、彼は既に灰皿のそばに立っていた。コートのポケットから顔を出したソフトケースは空になってひしゃげている。一時間前には、まだあと三本ほど残っていたように見えたが、彼は顔を洗ったあとみたいにさっぱりした顔で、
「俺はさ、あいつを世界でいちばん可愛がらなきゃいけない。命に換えても、あいつを守って行くんだ。今度こそ」
暁李が言葉を発するより先に言った。この一時間で彼が何を考えてその答えらしきものに行き着いたのか、暁李は頑固に残る雪を靴底で擦りながら、まるで判らなかった。
空は曇って、風は冷たい、二月の鮒月はずっとこんなだ。雪の匂い、ガソリンの臭い、辛気臭い。
俺は、いったい尊がどんな言葉を発するのを聴けばすっきりするのだろう、それすらはっきりとは判っていない。別に俺がすっきりするかどうかなんて、関係ないことではあるのだけれど。
朝陽の思いが朝陽自身のストレスを招いている仕組みを理解し、少年の思いが叶う可能性の低さを理解した上でなお、朝陽の思いときちんと向き合っていないように見える尊に対して余計なことを言いたい……、ただそれだけなのかも知れない。
いいや、違う、違う。
「お前はそれでいいのかも知れない。けど、朝陽の置かれた状況は何も変わらないんだぞ」
平然と、「そうだな」尊は頷いた。
「でも、応えようがねーしなぁ。だって俺はあいつの兄貴でいなきゃなんねーんだ。あいつがそれじゃ足りなかったとしてもさ、それでも、あいつが大人になるまでずーっと守って行く。それが俺の、朝陽に向ける愛情なんだよ」
清らかな人間を装って尊が言うのを聴きながら、暁李は自分が何をやっているのか判らなくなりつつあった。朝陽の思いが叶うことはない、それが自然だと理解していながらも、……考えを変えられないとしても、そこに確かに存在する無垢な思いと向き合えと尊に求めたく思うことがそう大きく間違っているとも思えない。
あるいは尊は、なぜ暁李が急にこんなことを言い出したのかを訝っているのかも知れない。内心の迷惑を押し殺しているのかも知れない。暁李自身も大きなお世話を焼いている感覚は拭うことは出来ないのだ。尊が既に運転席に戻ってもまだ煙草を消せないでいる暁李は、例えば「友達だから」などと都合のいい言葉を思い付いた。友達だから、その弟との間にある一筋縄では行かない気持ちのやり取りを少しでも救ってやりたいとか、……結論が既に出ているとしても、朝陽ときちんと向き合ってやるべきではないのか、などと。
しかし、俺たちは本当に友達だろうか。
数人の客を乗せて発車して、淡々とバス停に停まって降ろし、また新しい客を乗せる、……レヴィルヴィアなしでも何の問題もない仕事をこなしながら、暁李の思考は灰色の空を彷徨した。一人の乗客もいなくなった車を、湿原入口、松之郷、目縫、そして一つ挟んで、村外れの和毛山登山口と走らせて、ドアを開けるごとに溜め息を一つずつ外へと逃す。尊の実家と暁李の生まれ育った家、そして清継が住んでいた家。役場前から北へ、湿原とぶつかったら東へ、自分たちに馴染み深い停留所を掠めるように辿ったバスは和毛山登山口で南へと向きを変え、鮒月駅を目指す。まだ暁李も尊も清継も高校生だった時分には循環路線ではなく和毛山登山口の先、鮒月山の転回場まで行って折り返すのが「1系統」であったが現在はこの通り、鮒月山に分け入ることはしない。少ない人員で輸送を確保することを考えた結果の循環路線化であるが、父が清継の右手を奪った現場に日に何度も行かずに済ませたく思っていることを、暁李は素直に認める。いつだって薄暗い峠への道が見えるたび、憂鬱になるのだ。松之郷、目縫、和毛山登山口、尊と暁李と清継が、そこに学と朝陽と父とが、繋がるがゆえにしがらむ道を進むうち、尊は「友達」だ、……と言うことに、多少の躊躇いが在るのは自分のほうだと暁李は気付いた。
幼い頃から家が近所で、父親同士が同級生であったものだから、それぞれの家に同じ年に生まれた息子同士の距離が近いのは当然の成り行きであるが、それは朝陽が兄に恋することが自然となってしまうがごとき、環境が構成した関係でしかない。当人たちの意思とは無関係に、初めから一緒にいることが当たり前であったからこそ、暁李と尊は「友達」であることを求められていたに過ぎないと考えることも出来る。
事実として中学までは、マウント取ってくるのが鬱陶しいという思いを抱いていたし、例の一件で結果的には暁李が恩を売ったことで尊が下に出るようになった末に今の関係が出来上がったと言うことも出来よう。あの一件以来、自分が尊よりも優越な立場にあると自覚していることは、レヴィルヴィアが評した通り「やなやつ」の在りようである。自分と尊の関係を「友達」と呼ぶことに躊躇いを覚えてしまう理由もそこにあるのだろう。
朝陽と向き合えと言うとして、自分自身が実は尊としっかり向き合えていないのではないか……、駅に車を向けてまもなく、二人ほど客が乗ってきた。駅前で降ろすとき、今日は車掌さんはおらんのかい、と問われた。ちょっと、なんて答えながら、……そうだ、仕事としてやってるんだ、と思い直す。
尊と朝陽に何らかの好ましい結論が出なくて困るのは、仕事に関わる話だからだ、と。