こどもとスマートフォンの問題について
こどもには過ぎたおもちゃである、と暁李は思っている。例えば「1系統」のバスの車内をミラーで見ても、多くのこどもがスマートフォンを持っている。あるいは、持たされている側面もあるのかもしれない。就職した後もしばらくは携帯電話を持ってさえいなくて、つまり必要性も感じていなかったのだが、会社に求められてようやく所持するにいたったそれを、暁李は朝家を出るときしばしば忘れる。「何かあったとき連絡つかねーと困るからさあ」と尊に苦言を呈されるのだが、しかし現状の暁李にとってはその程度の代物である。
しかるに、
「……おい、いつまで見てるんだ、もう寝るぞ」
スマートフォンとポケットWi-Fiを買い与えられたレヴィルヴィアはもう、それに夢中である。寝るぎりぎりまで動画を漁っているし、あるときなど暁李が寝付いたのを見計らって布団から抜け出し、トイレで音を小さくして見ていた。「にゃははははは!」という笑い声がうるさくてすぐにバレたのであるが、取り上げようとすれば土下座でもせんばかりの勢いで「それだけは! それだけは堪忍じゃ!」とべそをかくのでそれもしかねる。親というものになったことがない、なるつもりもない暁李は、「こどもとスマートフォン」という教育問題に直面した気分を味わうこととなった。夫婦というよりは保護者として、清継に責任を求めたい気持ちになるが、これではまるで、甘いおばあちゃんが孫にねだられるまま小遣いをやるのを咎めたくなる母親ではないか。
暁李が遠慮がちに苦情を申し立てたところ、
「じゃあ、ルールを作ろう」
清継はにっこり微笑んでそう言った。
「ルール?」
「うん。ヴィヴィはきちんとそれを守ると思うよ。おりこうさんだからね」
彼の提案を具体的に聴いて、……実効性という点において、暁李はほとんど期待していなかった。しかしながら、その夜からレヴィルヴィアは夜遅くまでスマートフォンを見ることはなくなった。部屋に戻ってからもしばらくは動画を見ていたが、午後十一時を過ぎ、暁李が床に就く時間になるとぱたりとスマートフォンから離れて、暁李の背中に引っ付くのだ。何があったのだろうかと気になって観察を始めて三日目、レヴィルヴィアが夢中になってかじりつくスマートフォンの画面に答えが出た。
ヴィヴィ、おやすみの時間だよ。
メールが届く。それを見るなり顔を上げたレヴィルヴィアと、真っ向から目が合った。
「なんじゃ」
メールの送り主はもちろん清継である。そのメールを見たらもう動画を見るのはやめて布団に入る……、そういう約束を、レヴィルヴィアは清継としたのだ。
並んで歯を磨き、順にトイレに行って、布団に収まるレヴィルヴィアは言った。
「だって、妾はキヨのことが大好きゆえ、キヨと約束したことはきちんと守るのじゃ」
その言葉を聴いた清継の微笑む顔がはっきりと想像できた。彼のレヴィルヴィアを見る目はどこまでも優しく、レヴィルヴィアもまた、清継を愛しているに違いなかった。無論、恋とか愛とかそういうものとはもう、能う限り距離を置いて生きていくつもりの清継ではあろうけれど。
「……お前、俺じゃなくて先輩の嫁さんになればよかったんじゃないのか」
「んむー……、そういうわけには行かぬ。キヨの嫁には妾はあまりに不釣り合いじゃ」
確かに美しい清継とちんちくりんのレヴィルヴィアは不似合いである。……しかしまるで俺の嫁には相応しいかのごとき言いかただ、憮然とした暁李に追い討ちを掛けるように、
「それにのう、夫婦というものは互いに助け合うものじゃろ。妾がキヨの嫁になってしもうては、妾は思う存分キヨに甘えることも出来んじゃろ……」
下らぬことをレヴィルヴィアは言った。暁李は一度溜め息に背中を膨らませて、何も言わずに目を閉じる。レヴィルヴィアはすぐにすんなり寝息を立て始めたが、不意に去来した考えが瞼の裏でちらついて、暁李は眠りの緒を掴み損ねた。
あんまり脳を回すと眠れなくなることは判っている。しかし眼球が疼いて、瞼の中の闇に、今この瞬間に考えたところでどうにもならないことが浮かんでくる。背中の少女を起こさないようにそっとベッドから抜け出して、トイレに籠って煙草に火を点けた。清継という、近くて遠い人のこと、「先輩」と呼ぶしかない人のことを考えると、いつだって暁李は不器用になった。
清継の現状最後の恋人であったのは、暁李の父である。
清継は右腕を失ったときも、口にしたのは自責の言葉ばかり。暁李の父を責めるような言葉は一切口にしなかったし、自身に右手のないことを気にする素振りは少しも見せない。
父を追い詰めてしまった、清継は言っていた。独身であった父に、清継を「母」として紹介されたなら? 告白に伴う羞恥心がどれほどの大きさであるかは暁李にも想像できる。しかし、暁李はそれを拒絶しただろうか? 父の決断を非難しただろうか?
驚きはしただろう。それでも暁李は父を支持したはずだ。先輩を「母」と呼ぶことに躊躇いこそあれ、美しい人と、大好きな人と、同じ屋根の下で暮らしていくのだという事実を、暁李はきっと好意的に受け入れていた。
それなのに、どうして自ら破滅を選んだ、バカ親父。
煙たい溜め息が宙に浮かんだ。
レヴィルヴィアは、清継が幸せそうに見えると言った。そんな馬鹿なと頭ごなしに否定したい気持ちがあるのに、どこかしら暁李はそれに同意したかった。どうかそうでありますように、……彼のことを思うたび、暁李は祈りを捧げたくなる。けれど結局のところそれは、「これ以上あの美しい人の身に不幸が降りかかることがありませんように」というレベルに留まる。どうも、俺に可能なのはそれぐらいしかないように思われるから。
「暁李、腹でも痛いのか」
ドアの向こうからの声に、煙草を消した。気を付けていたのだが、換気扇の音で目を覚ましてしまったらしい。
「煙草吸ってるだけだ」
断りもなくドアを開けて、「んむー、けむいのう……」と顔をしかめる。
「それは身体に悪いのじゃろ、とっととやめるがよかろう」
言われるまでもなく判っている。暁李にせよ尊にせよ、近くにいるこどもの肺を曇らせないためにはとっとと縁を切るべき紫の煙なのだが、自分の胸の中に蟠ったものを吐き出したいと思うとき、それが目に見える形になるのが、暁李は少しだけ好きなのだ。
「だいたい、そなたそれを吸うておるときはここんとこ」とレヴィルヴィアは自分の眉間に指を当てた。「が、ぎゅーっとなっておるぞ。そんな顔してまで吸うようなものではあるまい。そんなもの吸うぐらいなら、自分の指でも吸うておればよいのじゃ」
順番が違う。ここんとこがぎゅーっとなるから煙草を吸いたくなるんだと言っても、理解してはもらえないだろう。眠れる気もまるでしないが「寝るぞ」と追いやって、形ばかりは再び横になる。
「暁李」
背中で同じく横たわったレヴィルヴィアの手のひらが、後頭部に当てられた。「すまぬ。ここ三日ほど忘れておったのう、『毎晩する』と言い出したのは妾なのに」
暁李は全く脳に留め置いてすらいなかった。「これからはきちんと毎夜こうしてそなたをなでなでするぞ」と決められたって、永久に忘れられたとしたって、暁李には何の影響もない。
「ん、そなたも」
背中を向けたまま、右手を肩の後ろへ伸ばした。指先に髪が触れる。くすくすと笑ったレヴィルヴィアが、ぴったりと背中へ引っ付いた。
「さきほど……、そなたは、キヨの嫁のほうがよいと申したのう……、なるほど妾も、少しはそう考えた。しかるに、……やっぱり妾にはそなたが合っておるように思う。キヨは、妾が何をするまでもなく幸せな男じゃ」
その定義を訂正する義理もない。暁李は布団の中に手を入れて、肩まで引き上げた。今夜も冷える。煙草のために布団を抜け出していたせいで、足の先が冷たくなってしまった。
「キヨは……、人の幸せを願うておる、……人を笑顔にしたいと思うておる。そして、……キヨはそなたのことを、とても大事に思うておるのじゃな……、そなたが幸せであることが、キヨにとってはきっといちばん大事なことなのじゃ……」
声が、だいぶ眠そうになった。それでもレヴィルヴィアの言葉はもう少しだけ続いた。
「ゆえに……、のう、妾は、そなたを幸せに……、しようと思うのじゃ、……不幸せなふりなどせずともよいほど、幸せにしてやれたらよいと思うのじゃ……。このあいだ、……キヨの帰りが遅うなった日に、そなたが共に在ってくれたゆえ、……妾はどれほど救われたか判らぬ。妾が共に在ったことが、少しぐらいは……、んむ、そなたにとって救いであったなら、どんなによいか……」
その言葉を最後に、レヴィルヴィアは眠りに落ちた。暁李は目を閉じて、半ばまで夢に沈みながら、祈りにも似た言葉を口にした背中の少女に導かれるように、彼女の寝息が整うのに合わせて呼吸するだけの肉体になる。