葵
〈葵〉
―私の十代に「青春」なんてものが存在しただろうか。若い男女が夢を持ち活力にあふれる様を、どうして人はそう呼ぶのだろう。
人生の春は、私にとって、誰かに語るような輝かしいものではない。でも、強いて言うなら「勿忘草」だ。
中世のドイツで、結婚を約束した若い男女が森で可憐で小さな花を見つけた。永遠の愛を証明するため、恋人は激しく流れる川の向こうの花を手に入れようと手を伸ばした。その時、誤って川に落ちて流されてしまった。
「僕を忘れないで」
こう言って小さな花を岸にいる恋人に投げ渡したことが、「忘れな草」または、「勿忘草」の由来である。
そのまま「忘れないで」って意味以外でも「真実の愛」とか、「真実の友情」とかいう意味もあるらしい。
日本では四月頃にピンクや白や青の勿忘草が咲くみたいだけど、ドナウ川で恋人たちが見たのは、いったい何色だったのだろう。
愛の悲劇だから、真実の愛、永遠の愛を表す純白の白だろうか、それとも、うら若き男女の恋模様を表すピンクだろうか。
私は青だと思う。
澄んだ深いその色は、冷静で冷たく、盲目な男女に現実を突きつけてくれるだろうから。
2019.8.14―
「紗葵ー、何書いてんの?」
エンターキーを押したのと同時に、タイミングよく柊が顔を覗き込んだ。慌ててノートパソコンを閉じて
「別に何もないよ。ただの日記日記」
と誤魔化した。
別に内容がどうとかではなく、柊には心配をかけたくなかった。
柊はその彫刻で掘ったような端正な顔を
「ほんとに~?」
と、ほとんど鼻と鼻がくっつきそうなほど近づけてきた。
「ほんとだよ。別に大したこと書いてないし、日記って人に見せるようなものじゃないでしょ?」
「まあ、たしかに…。でも、紗葵が帰ってきてからずっとそんな目してパソコン見てるから、心配したんだ」
「あっ、ごめん。なんか今日、学校疲れちゃった」
あはは、と笑って柊を見ると、まだ納得してはいないようだったが
「まあ、最近暑いしな。学校も夏休み入って久々行ったんだし、疲れたんだろ。少し休憩しようよ」
と、去年京都を訪れた際に、二人で作ったマグカップを、照れたようなくしゃくしゃの笑顔で差し出した。
かなり心配させていたことに気付き、素直に歪な形の、でも光沢のある飴色のコップを受け取った。
「ありがとう」
と言って柊を見ると、また嬉しそうに整った顔をくしゃくしゃにして見せた。
湯気がくるくると愉しそうに天井にのぼる、牛乳がたっぷり入ったコーヒーを、そっと口に含み、ふうっ、と息をはいた。
ざらざらとしたコップの底に触れながら、小さなソファーにもたれている柊に目をやった。
柊の手には、同じく歪な形をした、でも落ち着きのあるマットな質感で、夜、田舎の祖母の家に向かう道の、田んぼも畑も人もすべて飲み込みこんでしまう、あの漆黒のようなマグカップがあった。
その漆黒と同じくらい黒いコーヒーをすする柊の両手は、絹のように白くて透き通るようだ。
京都の陶芸体験では、オプションで五種類の釉薬から、質感や色を選ぶことができた。
私は迷わず釉薬の中でも、耐久性が強くて艶のある「透明釉」を選んだ。
一方で柊は、陶器など差して興味はないにも関わらず、他の体験客よりも時間をかけて選んでいた。
「毎日使うんだから、手触りは大事だろ」
「色にこだわりはないの?」
「いや、ここに毎日注ぐコーヒーより強い黒でなくっちゃ駄目だ。毎朝俺の頬を叩いてキリっとさせてくれるもんじゃなきゃ」
その後、弟子風の若いお兄さんが見かねて進めてくれた組み合わせで何とか納得し、鴨川で遅めの昼食を食べる頃には、
「早く届かないかな」
と、一か月後の作品の到着に胸を躍らせていた。
昼食は、京都でも有名な喫茶店の「卵サンド」であった。
十分に厚く切った卵焼きを、苺ジャムとマスタードを両面に薄く塗った食パンに挟んだ、三角の小ぶりなサンドイッチである。
柊は嬉しそうに、口の右端に赤や黄色を付けて
「美味しいっ。ね、紗葵も食べてみなよ」
と、白い箱の中に残る三つのうち一つを私に差し出した。
一口頬張ると、口の中で卵の優しい甘さが広がり、マスタードと苺ジャムが意外にもマッチしている。
素朴でシンプルな味付けに、ひと癖加えたこのサンドイッチと静かな鴨川の流れが、またふいに心の奥にしまった記憶の扉をたたいた。
叔母は岡山県倉敷市に十年前から小さなカフェを経営している。
倉敷といっても、観光スポットがあるような場所からはおよそ三十キロメートルも離れており、一番近い駅から一時間ほど歩いた所に叔母の店はある。
白いペンキで塗装された木製の看板に、青いペンキで「ベルタの丘」と書かれた看板が目印だ。
実際、店があるのは「ベルタの丘」ではなく、正式には「王子が丘」である。
標高二百五十メートルほどであり、そこから瀬戸内海の多島美や、瀬戸大橋の全景、
四国連山のパノラマが一望できる。
近くには、自然が造り出した巨石や奇岩が点在し、春になれば桜が咲き誇る。
景色は申し分ないが、都心からも離れたこの辺鄙な場所に、なんだって叔母は「ベルタの丘」を立てたのかというと、叔母は、世界でたった一人の愛する人を亡くしたのである。
橙樹さんには、一度会ったことがあるが、人当たりのいい、いかにも「パパ」というような人だった。
実際、二人の間に子どもはいなかったが、毎朝四時に起きて、その日のパンの仕込みをしなければならない、過酷な仕事の中で、笑顔を絶やさず働く様子は、小さかった私には眩しいほど輝いて見えた。―良いのは外面だけで、帰ったら会社の愚痴やアルコールばかりの父親と比べたせいかもしれないが。
(将来は橙樹おじさんみたいになりたい)
そう思わせるほどに叔父は素敵な人だった。
むろん、叔母もそういう誠実な橙樹さんを好きになったのである。
叔母が会社の同僚と参加した四国温泉ツアーに、たまたま橙樹さんも友人と参加していた。
同年代だということもあり、叔母たちはすぐに意気投合した。自由時間も一緒に行動し、旅行中、叔母たちは楽しいひと時を過ごした。
帰る頃になって、橙樹さんが、岡山で近々店を出す予定だということ聞いて、叔母は一年以内に友人と一緒に訪れるという約束を交わした。
一年も経たずに、叔母は橙樹さんと再会した。
叔母は一人で来ていた。しかも、頼まれてもいないのに、橙樹さんへ「三島コーヒ」の豆を土産に買って行ったのである。
「三島コーヒ」は、コーヒー豆の中でも、特上級の豆を仕入れる名の知れた名喫茶である。九時から十時までのモーニングを食べるたに、朝早くから、噂を聞きつけた人々によって行列ができている。
人々が求めるそれは、通常よりひとまわり小さいトーストに、バター一欠けと、たっぷり大粒のあんこをのせた「三島トースト」と、
おかわり自由のエチオピア産コーヒーである。
苦味が少なく、フルーティーな香りと酸味が強いのが特徴で、店主の趣向で植えられた色とりどりの小さな花が咲き誇る庭先を、朝の冴えわたる空気を感じながら眺めるのには、うってつけの一杯である。
「朝は忙しいとは思いますが…」
と、叔母が遠慮がちに紙袋を差し出すと
「ありがとございます。朝はいいんですが、昼間になるとどうしても生地をこねる手が止まってしまって…」
と、照れくさそうに耳の裏を掻いて言った。橙樹さんが経営するパン屋には、仕込みをする見習いの男の人と、昼から夕方五時までのパートさんの二人だけだ。
朝は男二人でレジも仕込みも回して、パートさんが来る昼に短い休憩をとる。
その時、橙樹さんが作るのが、分厚い卵焼きを、店で余ったふわふわの食パンに挟んだ「卵サンド」である。
この食パンは、「カツサンド」を作る時に余ったものであるため、両方に粒たっぷりのピリ辛のマスタードが塗ってある。見習いの慎さんは、マスタードが苦手で、店主の「卵サンド」に、店で出している「紅ほっぺ」を使った、特製の苺ジャムを塗っていた。これが何とも言えない美味しさで、この時から二人の賄いは、甘いジャムとピリ辛のマスタードを塗った「卵サンド」が定番になったのである。
「昼食の卵サンドと一緒にいただきます」
といった後、今度は叔母から目を逸らして
「花菜さんが選んだものなら間違いないでしょうしね。」
この時初めて橙樹さんは、叔母を「手島」ではなく、「花菜さん」と呼んだ。
叔母はくすぐったいような気持ちになって、
「ありがとうございます。それと、あたしもうお腹ペコペコです」
と、同時に叔母のお腹から、いっそのことすがすがしい音が鳴った。
さっきまで遠くの方を見ていた橙樹さんも、これには目を丸くし、二人揃ってはじかれたように笑い合った。
和やかな雰囲気のまま、店までの道中で、二人はお互いの好きなものやこれまでのこと、さらに将来の目標や野望について教え合った。
赤と深い緑を基調とした、小さな煉瓦造りの建物からは、イースト菌が焼ける特有の匂いと共に、香ばしいバターの香りと、爽やかな果実の香りが、丘を駆け上がってくる塩風に乗って、鼻孔を刺激した。
叔母は、目の前に広がる瀬戸内海と、同じ色をした空の下に咲き誇る花々から、一斉に歓迎されているように感じた。
店が立つ丘の上から見る景色は、今まで見たことのないものに思え、ヨーロッパのどこか田舎町にでも来てしまったようである。
橙樹さんは、丘の一番出っ張った所に叔母を案内した。
すでに、恰幅のいい女の人が二人、少女のように、目にも鮮やかなテーブルクロスや、北欧風のアンティーク食器を並べていた。
橙樹さんが声を掛けると、きゃっきゃと声が聞こえてきそうなほど、肉づきの良い体を揺らして、二人でこちらに駆けてきた。
「さあさあ、座って座って。」
「ワインはお好き?このお皿は、この日のために今朝、市場で調達してきたのよ。」
と、二人は叔母が息つく間もなく、次々に話しかけた。
橙樹さんをちらりと横目で見ると、申し訳なさそうに眉毛を八の字にして、こちらを見ていた。
熱烈な歓迎を受けた後、橙樹さんと慎さんが料理を運んでくるまで、女子三人―うち二人は心が少女であるが―で、しばし談笑を楽しんだ。
この「小麦の丘」を始めるまでの経緯や、この土地のこと、はたまた夫の愚痴まで、様々なことを語り合った。
三人はすぐに意気投合し、叔母も年齢の垣根を越えて、さっきまでの二人と同じようにきゃっきゃとはしゃいだ。
そのうち、背が高く、ひょろっとした青年が来て、
「こんにちは」
とだけ言って、形の違ういろんな種類のパンが盛られたバケットを、テーブルの真ん中に置いた。
いくらかワインをチーズを頂いていたが、鼻を刺すような香ばしい匂いで、またお腹の虫が声をあげそうになった。
橙樹さんも、後ろから続いて、今度は生ハムやベーコン、そして小瓶に詰められた真っ赤なジャムとバターを運んできた。
叔母は夢見心地で料理を堪能した。
食事の間、慎さんという青年は、最初不愛想なようだったが、話していくうちに、実は話し上手だということが分かった。
何より、慎さんは元々有名なパン屋で修行していた橙樹さんに憧れて、店を出すという噂を聞きつけ、弟子入りしたという話を聞けた。
そして、橙樹さんはこの店を、もっと多くの人に知ってもらい、自分のパンを世界中の人に味わってもらうことが夢だということを知った。
橙樹さんは、師匠の夢を熱く語る弟子を、穏やかな表情を浮かべ、ワインを片手に見守るように耳を傾けていた。
叔母は、いくらでも食べられてしまいそうな、雲のように柔らかく、素朴な甘さのパンを食べながら、橙樹さんと同じように弟子の話を聞いていた。
叔母は、特に「シュガーバター」の虜になった。
四角い形の、ふるふるとしたパン生地の中に、ほんのり塩の効いたバターがたっぷりと練りこまれていて、底に砂糖がまんべんなく敷いてあるだけの、シンプルなパンである。
口に入れると、しゅわり、と溶けて、今上空に流れてきた雲を食べているように感じた。
素朴で、しっとり落ち着いていて、でも、深みのある味わい。
すぐになくなってしまうけれど、口の中にほのかに残るその懐かしくもある味が、橙樹さんの人柄を表しているようだと、叔母は感じた。
叔母は、橙樹さんの作るパンや瀬戸内の自然だけでなく、橙樹さんのことも好きになった。
それは橙樹さんも同じで、自分の作ったパンを美味しそうに食べる叔母の、無邪気で純粋なところに惹かれていった。
食事が終わった後、店は三人に任せ、二人は巨石におもしろおかしく名前を付けたり、瀬戸内海から見える瀬戸大橋と、ぽつぽつと浮かぶ小島を眺めた。
奇岩の一つに座って、橙樹さんが、魔法瓶から果実の甘酸っぱい香りのするコーヒーを注いでくれた。
二人でコーヒーを飲みながら、瀬戸内海に沈んでいく夕日を見ていると、突然橙樹さんが立ち上がり
「やっぱり、このコーヒーを入れる時間はないかもしれません。」
「すみません…。」
「いえ、そうではなくて…。」
そう言うと、橙樹さんは意を決したように
母に向き直り、
「毎日十二時きっかりに、コーヒーと卵サンドを入れてくれませんか。」
「えっ…」
「いえ、あのっ、入れなくても、その、一緒に食べませんか?卵サンドを。あいつと三人でよければですが…。」
ここまで言って、橙樹さんは叔母から目を逸らし、俯いて耳の後ろを掻いた。
俯いた橙樹さんの横顔がほとんど沈みかけた夕日に照らされていた。
叔母は一度夕日に目をやって、橙樹さんに向き直り、
「じゃあ、美味しいコーヒーを出す店を探さなくっっちゃ」
と笑って言った。
橙樹さんも
「お供します。」
と大げさに手をついて笑った。
昼間のコーヒーのような闇が包み込む、電灯のない田舎道を、叔母と叔父は手を繋ぎ歩いた。十年たった今でも、叔母はその時のことは、ついさっきまでのことのように、目に涙を浮かべて話すのである。
そして、数えきれないほど食べた「卵サンド」を、私が「ベルタの丘」を訪れる度に、たっぷりのカフェラテと共に振舞ってくれるのである。
「彼はね、コーヒーが苦手なのよ」
淡い茶色の髭が付いた私の口元を、丁寧に拭き取りながら、呆れたような怒ったような、それでいて泣きそうな顔で叔母は言った。
「紗葵、今晩何にしようか?」
と、柊に問われて
「卵サンド」
「え?」
「…と、苺ジャムとマスタードかな」
と、笑顔で答え、すっかり冷めて色が薄くなったカフェラテを机に戻し、鞄から財布を取り出した。
「卵サンドかー。懐かしいね」
「うん、急に食べたくなちゃって。」
「鴨川で二人で食べたよね。美味しかったなー。今度は中でも食べてみたいね。なんだっけ、あの老舗っぽい感じの…」
「三島コーヒ」
「あっ、そうそう!今度はモーニングでもいいかもね。早起きしなくちゃだけど」
「そうだね」
アパートの玄関を開けて外に出ると、空には半分かけた薄っぺらい月が、カラスみたいに真っ黒な空に浮かんでいた。
柊と頼りなく光る電灯が続くスーパーまでの道を、しっかりと、手を繋いで歩いて行った。
繋いでいる手がぎゅっと握り直された。見上げると、柊がまたくしゃくしゃの笑顔で微笑みかけていた。
「ああ」
紗葵はこの手を離さないと、柊の大きくて広い肩越しの白い月を見上げながら誓った。