第零話 名前のない物語
その日、一匹の……一人、一羽、一頭?
どう数えるのが正しいのか曖昧な、半透明の生物のような存在が一通の手紙を運んできた。
色は薄緑。
顔があって、身体があって、翅があって……小人のような、妖精のような、それが混ざり合った生物。
向こう側が透けていて、白い雲、薄緑色の身体と交じり合った青い空が見えている。
旅先で数日だけ部屋を借りていた宿屋の窓から室内へ音も無く入り込んでくると、その生物は手紙を木製のテーブルの上に置く。
そのテーブルの上で寛いでいた黒猫が、面倒くさそうに「ニャア」と鳴いた。
――ああ
以前は目で追う事も難しい速さで空を駆けていた半透明の生物……友人が契約した精霊、シルフの弱々しさに、契約主がそろそろ危険なのか、と。
そう思いながら座っていたベッドから立ち上がり、テーブルの上に置かれた手紙を手に取る。
内容は、簡略に数行だけ。
どこか覇気のない文字は日本語で、それはこの手紙を書いた主と、俺と、後は数人だけしか読めない文字。
数千年の歴史を持つエルフの古代文字よりも読める人は少ない。
「そうか」
窓から外を見ると、空は快晴。その青色はどこまでも続いていて、白い雲は緩やかに空を流れていく――。
そんな空の中央とも思える場所に、一つの人工物。いや、神造の建物が浮いている。
空に在る建物――雲を纏った黄金と白亜の宮殿。現実ではありえない、異世界だからこその遺跡。
神が住む天界へと通じる門があるその宮殿こそ、俺達“異世界人”が最後に目指す地球へ帰る道がある場所。
――ただ、俺はそこに向かわなかった。
帰りたくなかった。戻りたくなかった。
大地はどこまでも広がり、地平線すら見えるほど。
地上の緑は瑞々しく、息を深く吸えば正常な空気が肺に満ちる。
人の手……工事や開発によって穢されていない、正常な自然が世界に広がっている。
俺は、この世界が好きだ。
アスファルトとコンクリートで覆われ、インターネットで繋がった世界ではなく。
何も無くて、退屈で、毎日歩きや尻が痛くなる馬に乗って移動しなければいけない不便な世界だけど――住んでいる土地の隣近所、街道ですれ違った旅人同士、名前も知らない相手と力を合わせて生き抜く……そんな異世界が好きだ。
だから、帰らなかった。
俺と、あと数人。
異世界に召喚されたのは20人。
顔も知らない、名前も知らない、そんな同郷の仲間達。
当然、助け合う事なんかできなくて、俺達は四つのグループに分かれてこの世界を救った。
そして、この世界に残ったのはその中から十人にも満たない数。
――それも、今では減ってしまった。
俺も含めて、あと五人。
その内の一人――『勇者』として四つの国から祝福され、その内の一つの国王とまでなった英雄。
その英雄が、もうすぐ寿命を迎える……。
手紙には、そう書かれていた。
いや、書かれている内容は仕事の催促――その『勇者』から頼まれた依頼の進捗を確かめるもの。
だが、書かれている文字の短さと歪み、そして力無く空を飛ぶシルフの雰囲気から、死の気配を感じてしまう。
ふう、と息をゆっくりと、長く、深く吐いた。
「ありがとう、シルフ。これはお駄賃だ」
そう言って、ベッドの脇に置いていた荷物袋から干し肉の切れ端を取り出すと、テーブルの上に置く。
身体を休めていた黒猫が手を伸ばそうとしたが、首根っこを摘まんで持ち上げると抗議するように「ニャアッ」と強めに鳴く。
その様子をしばらく眺めた後、緑色の半透明――シルフが干し肉を口に含んだ。
半透明の身体に取り込まれた干し肉は不思議な事に形が残らず、口に入れる傍から魔力へと変換され、取り込まれている。
精霊とは世界に溢れる各々の属性――シルフなら風と、契約主の魔力を元に受肉した存在。
その身体の維持に一番必要なのは契約主の魔力だが、人間が食事をして栄養を得るように外部から魔力を得ることも出来る。
ただ、干し肉程度では魔力の足しになっただろうか……?
シルフは感謝するように俺を見上げると、ペコリと器用に頭を下げた。
「依頼の方はなんとかするよ。取り敢えず一度戻るから――それまで頑張れって伝えておいてくれ……ああ、この会話も届いているんだったか?」
俺の言葉にシルフは首を横に振った。
昔は精霊越しでも会話が出来ていたのを思うと、もうそんなにも弱ってしまっているのかという気持ちが湧く。
……それも当然か。
あれから百年近い時間が流れた。
神々の祝福を受けた影響で普通の人よりも頑丈な身体と強力な魔力を得たとはいえ、ただの人間なのだ。
その長い時間を生きるだけの“寿命”は、延ばす事が出来なかった。
黒猫を掴む手とは逆の手で、無精髭の生えた顎を撫でる。
「そっか。それじゃ、また後でな」
そう言うと、来た時と同じように開けた窓からシルフが飛び出していく。
やはりその勢いは全盛期――魔王と戦った時とは程遠く、どこか弱々しい。
窓に近付くと、その姿が見えなくなるまで目で追って、そして窓を閉めた。
「それじゃ、国に帰るか」
荷物はそう多くない。
背負える程度のボロいズタ袋には野営用の毛布や食器、簡易の調理道具。あとは保存がきく干し肉や乾パン、少量の調味料。一回分の着替え。
たったそれだけ。
それでよかった。
身軽に。自分の気が向くままに――ただ、のんびりと大陸中を巡る。旅をする。
食材の殆どは旅先で狩りや野草の採取で手に入れ、飲み水は川で問題ない。
焚火で暖を取り、星空を見上げながら眠る。
朝霧が煙る早朝から歩き出す事もあれば、通りかかった馬車に頼み込んで乗せてもらう事もある。
そうして……約百年。
それが俺の人生で、そしてこれからも続いていく旅の日々。
多くの人は退屈でつまらない、派手さの無い人生だと思うだろう。
けれど――機械と科学、コンクリートとアスファルト、工場と穢れた空気に覆われた世界を知っていると、そんな人生、そんな旅すら輝いて見えるのだ。
たとえそれが百年続いたとしても……人々の営みは少しずつ変わっていて、一年前、十年前とは違った顔、景色を見せてくれる。
日本に、地球に居たら経験する事が出来なかっただろう人生。
数日だけ田舎の村で身体を休めて、それがまた始まる。
国に戻るだけではない。
旅の予感。
剣を腰に吊り、気が休まる雑な格好から厚手のズボンにチュニック。革手袋にブーツ。最後に使い古したボロの外套を羽織り、旅装束に着替え、相棒とも言える黒猫をズタ袋へ詰めると彼は袋の口から顔だけを出して「にゃあ」と鳴いた。
どこか楽しそうだ。
俺も楽しい。少し、口元が緩んでしまっているかもしれない。
仲間の死の気配を感じ取ったというのに、そんな旅の予感に少しワクワクしている自分が居るのが分かった。
「また長い旅になるかもしれないが、どうするかね?」
そんな俺の言葉を理解しているように、黒猫が「ニャア」と同意するように鳴いた。