最後の日
手紙が来てからここを出るまで、予想していたよりも時間が無い。
この部屋で過ごす最後の日、思い出に浸る余裕もなく私も蘇芳さんも片付けに追われていた。
「撫子、この辺りの物は全部この中に入れておくぞ」
「ありがとう、こっちの棚はもう一杯だから一回しまっちゃうね」
パソコンを操作して中身を詰めた棚をしまい込む。
これがただの本でない事は蘇芳さんにはとっくに気付かれていたらしいので、堂々と使う事にした。
それにしても荷物お預けサービスのようなものを見つける事が出来て助かった。
外の人達に見られないためとはいえ、一度全部売るのはちょっと勘弁してほしかったし。
細かい物のまましまう事も可能な様だったが、ゲームソフトやら工具やらを一つずつクリックしていくのはちょっと辛いものがある。
箱や棚にまとめて入れる事で、その箱ごと預けられるのがかなりありがたい。
物を詰めては預けを繰り返し、最後にラグやソファなどの大きなものを預けた。
蘇芳さんの部屋も同様に片付け終わった所でご飯を食べてお風呂に入り、そのお風呂も片付けてしまう。
前に話し合った通りに入り口からすぐの部屋を最初の様にベッドと机だけにし、奥のもう一部屋は何もない白い部屋に戻す。
その部屋の更に奥に同じ壁を設置し、その向こうに隠し扉をつけてから蘇芳さんの部屋をくっつけた。
万が一見つかってしまった時のために蘇芳さんの部屋も片付けたが、調査でここに来る時にはそっちの部屋に預けていた物を出す事になるだろう。
「もう夜か、最後の情緒も何も無かったな」
「そうだね、もっと前から少しずつ片付けておけばよかった。あっ!」
「どうした?」
「ごめんちょっと着替えて来る。私ここに入れられた時は囚人服だったんだ」
慌てて隣の部屋で真っ白な服に着替え、今まで着ていた服を預ける。
危うくここで買った服で外に出る所だった。
思い出して良かった、囚人服を捨てていなくて本当に良かった。
部屋に戻ってから蘇芳さんと二人でベッドに腰掛ける。
ようやく一息ついて、なんとなくお互いに無言のまま部屋の中を見回した。
真っ白な壁と天井、真っ白なベッドと机……他に何も無い部屋。
「……こんな部屋だったんだな。百年以上過ごして来たはずなのに、俺の頭の中では君と過ごした部屋の方がしっかり思い出せる」
「何だか広く感じるよね。一年過ごしただけなのに結構物があったし、白いままだったのはプラネタリウムを見る部屋だけかな」
「あそこは鍛錬にも使っていたからあまり物は置かなかったが、隅の方には飲み物や手拭いが置いてあったしな。本当に何も無い状態は久しぶりに見た気がする」
ベッドの上から見つめる真っ白な部屋は、私にとっては初めてここに入った日、ほんのわずかな時間だけ見ていた物だ。
下を向けば真っ白な服、これは二週間くらい着ていたんだっけ。
そっと隣を見れば入った時には予想もしていなかった蘇芳色が視界に飛び込んで来る。
一人きりで過ごすはずだった永遠の時間、まさかの彼が此処へ来た事で二人で過ごす永遠の時間になり……そして明日にはここを出る事になっている。
そう考えるとこの一年間は結構忙しなかった気がした。
いざ出るとなるとなんだか少し寂しい気がする。
仕事も変なしがらみも無い自由で気楽な引きこもり生活も……蘇芳さん以外の人と関わりの無い、本当の意味で二人きりで過ごす空間も今日で終わりだ。
そんな感傷に浸ってため息を吐いたと同時に、軽く腕を引かれてベットに倒れこむ。
横向きに寝転がった体勢で、正面に同じ体勢で寝転がった蘇芳さんが笑っている。
少し混乱した頭で口を開こうとしたが、蘇芳さんが声を発する方が早かった。
「なにもしないさ。この特殊な空間にいる間は君に手を出す気は無い。ただ、今日は一緒に寝よう」
「…………うん」
顔と顔の間で繋がれた手をじっと見つめる。
初めて出会った時に痺れるほど強く握られた手は、今は優しく彼の手の中に包まれている。
手の向こうにある彼の表情も、どこか追い詰められたような無表情ではなく、いつか見たいと思っていた穏やかな笑顔だ。
「……一人で歩いていた百年間はここから出たくてたまらなかったのに、今は少し寂しいのが自分でも不思議な気分だ」
「私も同じこと考えてた。外に出たからって蘇芳さんとの関係は変わらないのに、ちょっと寂しいなって」
少しだけ強くなった手の力はそれでも痛みなど無く優しいままだ。
「外に出ても、私と一緒にいてね」
「それは俺の方が言いたい言葉なんだが」
最後、本当に最後なんだ。
また一か月後には戻ってくるとしても、蘇芳さんがずっと隣にいてくれるとしても、二人きりで構成される世界はこれが最後。
「星、見に行こうね。蘇芳さんが言ってた場所がもう無くても、別の場所に」
「そうだな、二人で新しい場所を探すのも楽しそうだ。それに君が好きな場所があるなら見てみたいし、せっかく外に出るのならば君の名と同じ撫子の花が見たい」
「それなら蘇芳の木も見に行こうよ」
「ああ……そういえば一つ思い出した事があるんだが」
「何?」
聞き返した私の前で、蘇芳さんの笑顔が少し意地悪そうに変わる。
これも初めて見るような笑顔だ、嬉しいけれど嫌な予感がする。
「君と出会ったばかりの頃、お互いに敬語は無しにしようという話になっただろう?」
「う、うん」
「俺は君に呼び捨てで呼んでくれていいと言ったが、君はその時もう少し慣れたら、と言ったな」
「……そうだね」
「もう一年ほど経った。さん付けは無くても良いんじゃないか? 蘇芳の木という単語は言えるのだろう?」
そう言えばそんな話もあったな、なんて思い出す。
でももう一年間は蘇芳さん、と呼んでいたのだ。
むしろ出会った頃よりも呼び捨てへのハードルは高くなっている気がする。
「蘇芳……さん」
「後半は無くても良いのだが」
「ごめん、これから頑張るからもうちょっと待って」
「なら、外の暮らしでの楽しみにしておこう」
楽しそうにそう言う蘇芳さんに、これは間違いなく数日に一度は言われるなと確信する。
私にとっては試練とも言えるくらい難しいのだけれど、もう頑張って慣れるしかないのだろうか。
正面の蘇芳さんの顔は満足そうに笑っている。
ちゃんと呼べた時にまた彼の新しい笑顔が見れるかもしれないのなら、少しだけ頑張ってみようか……外に出てから。
「外か、百年後ならばもう変わっている所ばかりなのだろうな」
私には一年ぶりでも、彼には画面の向こうにあっただけの未知の場所だ。
繋がれた手にそっと力を込める。
彼にとって知っている人も場所も、もう存在しない世界。
それだけは絶対に忘れないようにしなければいけない。
せっかく幸せだと思ってくれた彼がもう孤独になる事が無いように。
眠る気分にならなくて、この一年間にあった事だったり外へ出てからの話だったり、色々な事を話しながら夜は過ぎていく。
話している内にいつの間にか眠ってはいたらしい、繋がれていた手は解かれていたが代わりにしっかり彼の腕の中に収まった状態で目が覚めた。
僅かに聞こえる寝息で彼がまだ眠っている事に気が付いて、彼を起こさないためにじっとしておくことにする。
ソファに座っている時とは違って寝転がっているので全身が密着しており、伝わってくる彼の体温で全身が温かい。
桔梗がここに来るまで後数時間程度だろうか。
後少しだけと言い訳して、彼の温度を感じながらもう一度目を閉じる。
二度目に目を覚ました時には蘇芳さんももう起きていた。
至近距離での笑顔のおはように照れながらもいつも通り二人で朝食を済ませ、昨日と同じ様に二人並んでベッドに腰掛けて扉が開くのを待つ。
お互いに無言ではあるが、どちらからともなく繋いだ手はずっと離されないままだ。
数分後、静まり返った部屋に扉が開く音が響き、隙間から室内に向かって光が零れ落ちる。
一度だけ二人で顔を見合わせて、握る手に力を込めた。