君の心の中を知れたなら(蘇芳視点)
撫子と別れて部屋へと戻ると、作業台の上にある木彫りの材料が目に入った。
撫子へ渡そうと思っていた鳥かごも後少しで完成ではあるのだが、今の気分ではやる気など湧いてくるはずもない。
机の上に並べてある木彫りの置き物を見ていると何となく落ち着かず、上に出ていた物を棚や引き出しへすべて片付けた。
ガサガサと音を立ててしまったが、この程度の音ならば耳をすませない限りは彼女には聞こえないはずだ。
すべて片付け終えてから寝台に腰掛け、大きく息を吐き出した。
やってしまった、と額を押さえる。
撫子の元婚約者からのあの手紙。
色々な表現を用いて長々と書かれていた手紙だったが、要約すると撫子の友人が言う通り、自分を許してやり直してくれとしか書かれていないものだった。
それも撫子が自分とやり直す前提で書かれた文章ばかり。
彼女の友人が怒りをあらわにする気持ちがとてもよくわかる内容だった。
地位もある、問題を起こしても支え続けてくれる部下もいて、過程はどうであれ己で選んだ妻もいる。
それなのに何故今さら当然のように撫子を求めるのか。
頭の中で点滅するように兄とあの男の顔が繰り返し入れ替わる。
別人だとはわかっていてもどうしても考えてしまう。
また俺から奪うのか、と。
それだけ沢山の物を持っているのならば、一つくらい……撫子だけは俺にくれても良いではないか、と。
「……駄目だな」
隣の部屋の彼女に聞こえないように小さく呟く。
そもそも彼女は俺の物ではないし、彼女に向ける自分の好意の大半を占めるのは依存だとわかっている。
外に出る事が出来れば彼女は領主との婚姻が許されるほどの地位があり、自分は生まれた時代すら違う罪人。
共にいることができるかどうかの以前に、自分がどうなるのかすらもわからない。
いっそ……いっそ俺がここでこの部屋から出ていってしまえば、彼女はなんの心配もなく外の世界へ戻れるのかもしれない。
彼女だけでもこんなどうしようもない空間から出ることができるのであれば、その方が良いに決まっている。
さっき片付けた事で何も乗っていない作業台が視界に入り、こんな風にすべて片付けて部屋を出てしまえば、なんて考えが頭をよぎった。
部屋の外へ続く扉へと視線を向ける。
少しだけ浮かせた腰は、すぐに寝台へと戻ってしまった。
駄目だ、今の自分にはとてもではないが実行することはできない。
一人彷徨う恐怖がいまだに己を蝕んでいる。
撫子が出した手紙への返事が来ない限り、この先どうなるかはまだわからない。
自分がどうするのかを決めるのはそれがわかった後でも良いだろう。
そんな言い訳のような考えで自分を納得させる。
彼女との未来が許されるのであればもちろん自分も外には出たい。
だが許されないのであれば、引き離されてしまうのであれば……
「……出られずとも構わない」
彼女だけでもここから出した方が良い、そう思う理性とは裏腹に心はそう訴えてくる。
あの時彼女が冗談交じりに口にした、もう出なくても良い気がしてきたという言葉。
俺がそれでもかまわないと返したのは紛れもなく本心だ。
万が一置いていかれてしまったら、引き離されてしまったら、またここで一人になって気も狂えずに彷徨い続ける事になってしまったら。
撫子と出会えたのは奇跡のようなもので、二度目などある筈も無い。
今度こそ自分は永遠に一人きりになるだろう。
牢獄に残されるのではなく外へ出されれば撫子以外の人間もいる。
一人きりになるわけではないだろうが、だからといって彼女と離されるのも嫌だ。
彼女が他の男と家族になる所を黙って見ているしかない状況など耐えられるはずがない。
彼女は俺の、俺の……
思考が少し前に戻っていることに気がついて更に頭を抱える。
どれだけ彼女に言葉にしてもらっていても、態度に出してもらっていても、未だに落ち着く事が無い自分の心。
最近は安定してきていたと思っていたのだが、あの手紙を見てから一気に後退してしまった気がする。
彼女の俺と一緒に出たいという言葉は、俺に気を使って言ってくれているのではないかという疑心、彼女に対しても失礼なこの感情さえ晴れてくれればこのどうしようもない気持ちも無くなるのだろうか。
「……怖がらせてしまっただろうか」
流石に刀を持ち出したのはやりすぎた。
あの手紙も彼女の元婚約者も、彼女の友人ですら自分から彼女を引き離そうとする象徴のように感じられてしまう。
問題を起こしたとはいえ婚約者の男には未だに領主という地位があり、自分にあるのは罪人という立場だけだ。
だからこそ自分から彼女が離れてしまう要因は少しでも取り除いてしまいたい、そんな事を考えている内に暴走してしまった。
冷静になってすぐに刀は彼女から見えないようにソファの後ろへ置いたが……そうだ刀は?
「……やはり駄目だな」
彼女の部屋に刀を置いたままで戻って来てしまった事に気が付いて更に気持ちが沈む。
外にいた時に自分の命を預けていた武器。
一人彷徨っていた百年近くの間は魔獣が出ないからと部屋に置いたままにしている事もあったが、まさか忘れるとは。
もし外に出る事が出来るのならば精神面から鍛えなおす必要がありそうだ。
もう一つため息を吐いてから立ち上がる。
気が付いてしまえば一晩とはいえ彼女の部屋に置きっぱなしにするというのも落ち着かない。
彼女の部屋に繋がる扉の前に行き、少し悩んでから軽く扉を叩く。
その場で待っても返事は無く、もう一度叩いてみたが結果は同じだった。
寝室か浴室にいるのだろう、そう考えて少しだけ扉を開く。
隙間から見えた部屋の中には予想通り彼女はいなかった。
誰もいない部屋、普段はつけられている窓代わりの画面も真っ暗だ。
この光景だけで一人になる恐怖が襲ってくるのだから、我ながらもうどうしようもない。
部屋と外の空間以外の色があると言うだけでも、以前とは比べ物にならないくらいに恵まれているというのに。
少し耳をすませてみれば浴室の方から水音が聞こえたので、彼女はそちらにいるのだろう。
撫子は風呂か………………何を考えているんだ俺は。
そういう面でだけは余裕があるとでも言うのか。
どうしようもないほどの情けなさに襲われながらも、頭の中に浮かんでしまったその光景を振り払い無かった事にして、刀を置いた場所へ目を向ける。
ソファの後ろに立てかけておいたはずの刀は滑り落ちたのだろう、床へ倒れていた。
ゆっくりと滑り落ちていったのだとしてもそれなりの音は鳴る筈だが、自分が気がつかなかったということは部屋へ戻った後に倒れたのだろう。
撫子も気が付けば拾い上げておいてくれるだろうし、刀があることには気が付かなかったようだ。
ソファの後ろには自分の部屋へ繋がる扉があるだけなので、音が聞こえたとしてもあえて覗き込まない限りはわからないだろう。
足音を立てないように歩み寄り刀を拾い上げる。
手の中の慣れた感覚にホッと息を吐いて顔を上げた時、テーブルの上の状況が目に入って体が硬直した。
夕食前に綺麗に片付けたはずの筆や硯が机の上に出ている。
すべて綺麗になってはいたが、先ほどまで使われていた形跡があった。
箱の蓋も少し開いており、彼女が一度開けたであろうことを示している。
すぐに彼女が何か手紙に書き足したのだと気が付いた。
何を書き足したのだろう、自分が部屋に戻った後に態々取り出してまで。
急激に湧きあがって来た不安をどうする事も出来ずに立ち尽くす。
俺の目の前で書かなかった事……俺に見られてはまずい事だろうか。
ちらりと水音が聞こえる部屋の方を見る。
先ほどまで手紙を書いていたのならば風呂には入ったばかりだろう、しばらくは出てこないはずだ。
「……最低だな、俺は」
そう自嘲してゆっくりと手を伸ばし箱の蓋を開ける。
指先が震えたせいで二、三度空振りした。
撫子が戻ってくる前にと焦りながらも一番上に乗せられた折り紙の花を退けて手紙を取る。
これは確か追伸への返事だったはずだ。
ただの友人へ向けた、おそらく自分の立場など一切考慮していない手紙。
一年近く撫子と共に過ごしてきたが、夜に別れてから朝までの間で撫子がいない時に俺がこの部屋へ来たことはない。
今日は刀を忘れるという普段ならばあり得ない出来事があったから戻ってきただけで、たとえ今日の様な事が無くても入る時は先ほどの様に彼女に声はかけるだろう。
俺が今この部屋にいるのは撫子にとっても想定外な事のはずだ。
この箱は朝になれば彼女の友人の元へ行く予定だった。
つまり本来ならばこれは俺が絶対に見ることのない物、撫子もそう思って書いたのだろう。
ならば……ここに書かれているのは紛れもなく彼女の本心。
俺への気遣いも、自分の立場さえも考慮されていない、友人に宛てた彼女の本当の想い。
心臓が破裂するのではないかと思うくらいにうるさい上に、手紙を広げるだけの動きも震える指先のせいでなかなかうまくいかない。
しばらく格闘してようやく広げることが出来た手紙を見る。
先ほど撫子が箱へ入れた時にはまだ書ける場所が残っていたそこは、今はびっしりと文字が敷き詰められていた。
読みたい、けれど知りたくない。
そんな相反する気持ちがあるせいか妙な恐怖を感じて、手の震えが止まらずに文字が揺れて読みにくい。
それでも必死にその文章を目で追った。
一度最後まで目を通し、内容が信じられずにもう一度、もう一度と何度も読み返す。
……何度繰り返しただろう。
浴室の方から音がしたことで我に返り、慌てて手紙を箱へ入れて蓋を閉めて元通りに戻した。
足音を立てない様に自分の部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた所で足から力が抜けて扉に寄り掛かる様にズルズルと座り込む。
扉の向こうから彼女の足音が聞こえ、寝室の扉を閉めたらしい音が響いて来た。
もう眠るのだろう、それならば今日はもうあの部屋へ彼女は戻ってこないはずだ。
しばらく経っても隣の部屋から何も聞こえなかったことでその考えが当たっている事を確信して、息を吐き出しながら俯いた。
その姿勢のまま視界に入る自分の足を見つめてぼんやりとする。
頭の中を先ほどの手紙の内容が繰り返し繰り返し流れていく。
ぽたりと何かが落ちる音と同時に、視界を占める自分の名と同じ色の着物が雨に打たれた時の様に少しずつ色を変えていった。
ぼんやりとしたまま、片手を顔へと近づければ手の平へ水滴が次々と落ちていく。
そこでようやくこの水滴が己の涙だという事に気が付いた。
「泣く、など……子供でもあるまいに」
小さくそう呟いたがボタボタと落ちる涙は変わらず己の服の色を変え続けている。
泣くなんていつぶりだろうか、少なくとも兄が領主になってからは無かった気がする。
涙とはどうやって止める物だっただろうか。
「…………止まらん」
目じりを擦ろうが押さえようが止まらない涙をどうしていいかわからず、じっと色が変わり続ける己の着物を見続けた。