声にするべきこと
拾い上げた手紙は几帳面な桔梗にしては珍しく、さっきまで読んでいた手紙とは別の種類の紙に書かれていた。
紙の大きさも小さく、内容に驚きながらもそのことを不思議に思いつつ読み進めたが、どうやらこの手紙は桔梗がこっそりと入れてくれたものらしい。
書いてある内容が信じられずにその場に立ったまま数度読み返して、最終的にぐしゃりと握りしめた。
直後にこれは桔梗からの手紙であった事を思い出して慌てて引き延ばす羽目になったのだが。
内容は正直ふざけるなとしか思えないもので、桔梗もこれに関しては私の味方であるらしいので最終的には問題なさそうだが腹だたしい事には変わりない。
とりあえず落ち着こうと三回ほど深呼吸を繰り返し、ソファに戻ろうと振り返り歩き出そうとしたところで、顔がぼふっと柔らかい物に埋まって止まった。
どうやらいつの間にか真後ろに蘇芳さんが立っていたらしく、何も確認せず振り返り歩き出そうとした私が彼にぶつかったようだ。
「わっ! ごめん蘇芳さん、びっくりした……蘇芳さん?」
じっとこちらを見下ろしてくる彼。
蘇芳さんが無表情なのはいつもの事だが、今まで見た事が無いくらい瞳に温度が無い気がする。
彼の名前を呼んだ声が後半に行くにつれて自分でも小さくなっている事が分かった程度には、彼の様子をおかしく感じている。
「……蘇芳さん?」
再度呼び掛けて見ると、こちらに向かって彼の手が伸ばされてくる。
手を繋いだりくっついたりと彼と触れ合う事はもうすでに日常の一部になっているので、特に何も考えず動きもせずにいるとそっと彼の胸に引き寄せられた。
頭の後ろと腰に回った彼の手で固定されて、彼の胸に顔が埋まる。
頭に彼の頬が当たる感覚に一瞬置いてからパニックになった。
先ほどまで頭の中を占めていた手紙の内容すらどこかに飛んで行ってしまったように感じる。
今までの彼を落ち着かせるための抱擁とも、少しふざけた触れ合いとも違う。
これではまるで、まるで……
「俺は……」
頭の上からゆっくりと話す蘇芳さんの声が聞こえる。
硬直した体は動かないが、頭は少し動き出した。
「俺は、結局君に……君の元婚約者の男が言ったことと同じことを言うのかもしれない」
「え?」
話す声と同じ様にゆっくりと頭を撫でられ、余計に体が強張る。
同じ事……この状態で蘇芳さんが私の姉を好き、なんて言う訳は無いし意味が分からずにいると頭上で大きく息を吐き出す音が聞こえた。
「撫子」
「な、に?」
「ここにいてくれ、外になんていかずに。ここで、俺と一緒に……永遠とも呼べる長い時間をかけて、絶望の待つ未来へ進んで行ってくれ」
「すお、」
腰に回った腕に力が籠り、拘束が更に強くなる。
彼の話す言葉を理解しようと頭の中が必死だ。
「君の友人は良い人だな。ここに入れられた君の無事を信じ、ここから出す手段さえも見つけて。会いたいと強く伝えて来る。少し……羨ましい」
「蘇芳さ、」
「君はこの時代の人間だ。外に出れば君の友人が、君を慕う人間が待っている。外には君の居場所がある。俺とは、違って」
胸の内をすべて吐き出すように続けられる言葉を、どこか呆然としながら聞き続ける。
「俺は百年前の人間で、罪人だ。あの外の世界の映像は名残があるというだけで俺の知る世界とは少し、いや全く違う世界の物だ。もう、俺には何もない」
「…………」
「今の俺にあるのはここにある物、この部屋と隣の部屋にある物だけ。その中で一番失いたくないのは君だ……もう一人になるのは嫌なんだ」
背骨がぎしぎしと悲鳴を上げるほど腕の力が強くなり、視界いっぱいに彼の服の蘇芳色が広がっている。
だから、と彼が一度言葉を切った。
「俺をここに一人にしないでくれ……今まで通り俺と一緒に、ここで発狂も死も無い、どうしようもない永遠の時間を過ごしてくれ」
そこまで言ってもう一度大きく息を吐き出した彼の頬が擦り寄るように頭に触れた。
彼の言葉を数度反復して、ようやくすべて理解して、ああそう言う事かと納得する。
彼のきつい拘束からどうにか腕だけを出して、そっとその背中に腕を回した。
「ごめん」
そう口にした瞬間、息を飲む音と更にきつくなる拘束に言葉選びを間違えた事を瞬時に察して慌ててまた口を開く。
「ち、違う、そうじゃなくて。おいていくからごめんって意味じゃないの」
今にして思えば手紙を読んでいる間、私は彼と会話せずに勝手に頭の中で色々考えているだけだった。
この空間で唯一共にいる人間に宛てて、外の世界からあなたを出す準備が出来ましたという手紙が届く。
逆の立場になって考えてみたらすごく怖い事だ。
「私、勝手にここを出る時はあなたと一緒に出るつもりになってた。あなたが結界の維持者だって判明してるなら上手く伝えられれば一緒に出られるんじゃないかって」
もう一度息を飲む音とともに拘束が少し緩まる。
自分の思いを声に出さなくてはいけなかったのは彼でなく私だ。
「おいてなんか行かないよ。出る時は一緒だし、出られない時も一緒。この状況であなただけおいて外に出ても罪悪感と未練ですぐに戻ってくることになっちゃう」
「……撫子」
「自分の中では当たり前の考えだったから、伝えなくて……声に出さなくてごめん」
私の言葉を聞いた彼が今までで一番大きく息を吐き出し、拘束が緩む。
かわりの様に軽く頭に擦り寄られ、また私は固まることになってしまった。
自分の戸惑いをごまかすように口を開く。
「私の元婚約者と同じ事って言うから、姉さんの事が好きとかいうのかと思ってびっくりした」
「そんなわけないだろう。画面越しにしか見ていない相手だ。それに妹である君には悪いがあの女性に良い印象は持っていない」
その言葉にホッとする辺り、私の中の彼への気持ちは結構重症らしい。
「君が言っていただろう、元婚約者が自分をここに入れたという事は自分に死ねと、発狂しろと言っているのと同じだと」
「……ああ」
そんな事も確かに言ったなと納得する私に向かって、続けて彼が口を開く。
「俺も同じ事を、いや、俺の方が酷いな。気も狂えず死ぬ事も出来ない永遠の時間を共に過ごしてくれと君に言っているんだから」
「あー」
なるほど、と納得する。
確かに言葉だけ聞いていれば蘇芳さんの方が酷い事を言っているのかもしれない。
けれど大きな差がそこにはある。
「でも、蘇芳さんも一緒にいてくれるんでしょう?」
「ああ、もちろん」
「勝手に一人で死ねって言われるより、俺と一緒に死んでくれの方が私的には全然良いと思うよ」
「……そうか」
酷い言葉でも嬉しいと思うのはやはり私が彼を好きだと思っているからなのだろうか。
少なくとも元婚約者と付き合っていた時はそれなりにあの人の事を思っていた筈なのだけれど。
いや、違うか。
あの人への気持ちはまだ恋になっていなかったんだ。
ゆっくり好きになっていくはずだった恋心は、恋になる前にあの人が姉を好きになった事で好きとは反対の方へ一気に進んだんだ。
だからあの人の言葉は不快で、蘇芳さんの言葉は嬉しく感じるのだろう。
私も結構我が儘だ、向ける感情が違うというだけで酷い言葉をかけられても嬉しいと思ってしまうなんて。
まいったな、なんて思う。
私は本格的に蘇芳さんの事が好きになっているらしい。
完全に自覚してしまえば恋人になる前の曖昧な関係を楽しむ気持ちに、早く伝えてしまいたいという気持ちが加わってくる。
そしてその気持ちに気が付いてしまえば、この体勢が本当に恋人同士の抱擁に感じられて……心臓がうるさく音を立て始めた。
それに気が付いたらしい彼が少しだけ笑ったような吐息が聞こえて、彼の小さな笑顔を見逃してしまったようで残念な気持ちになる。
離れがたいなと思う事もあり、どうしていいかわからないままで彼の思うままにされていると不意に彼の動作がピタリと止まった。
自分の意志で止めた訳では無く、何かに驚いたように固まった蘇芳さんが少し低い不機嫌そうな声を出す。
「……撫子」
「な、なに?」
「その手紙は?」
「手紙?」
聞き返してからさっきまで読んでいた桔梗からの追伸の手紙が手の中に無い事に気が付いた。
蘇芳さんに抱きしめられた時に落としてしまったようだ。
そこまで考えて顔が引き攣る。
彼の低い不機嫌な声に手紙という単語……おそらく今、彼の視界に入る位置に追伸の手紙が落ちているのだろう。
追伸、撫子様の元婚約者である領主様ですが、撫子様との復縁を望まれています。
そんな文面で始まった手紙が今彼の目の前に落ちている事に気が付いて、サアッと顔から血の気が引いたのが分かった。