感情の自覚(蘇芳視点)
時折どうしようもない不安に襲われた時、そして過去を夢に見た時……その度に彼女に縋り付いてしまうのが情けないと思っていた。
それでも唯一自分が落ち着ける手段である彼女との触れ合いを簡単に止められるはずもなく、毎回彼女の優しさに甘えてしまっている。
ただあの日、焦りのような感情の勢いに任せて好意を示すという形の菓子を口に入れてから二月ほど経つが、彼女に触れる理由が少し変わってきている気がした。
この空間での日々はあっという間に過ぎていく。
一人で彷徨い歩いていた時は太陽も月も無い為一日の感覚など無かったが、撫子と出会ってからは彼女が使っていた時を告げる機械で一日の終わりを知る事が出来る。
今日も相変わらず便利な物に囲まれてゆったりと二人で過ごしているが……ちらりと隣に座る彼女を見る。
以前よりも接触面積がかなり増えているというのに嫌がりもせずに手元の遊具に視線を落として集中している様だ。
彼女がゲームと呼ぶその遊具の画面の中で人間の絵が動き、その下には文章が表示されている。
その文章を笑顔を浮かべながら視線で追っている様子の彼女の方へ更に負担にならない程度の体重をかける。
先ほどよりもさらに接触面積が増えた為か撫子の視線がこちらへと向けられるが、素知らぬ顔をして目の前の画面に流れる物語を見ているとすぐに視線は遊具へと戻っていった。
……彼女のこの受け入れる範囲の広さはいったいどうなっているのだろうか。
出会ってから一度たりとも拒絶された事が無い事に気が付いて、そんな疑問が心に浮かぶ。
今の俺にはありがたいが、元婚約者相手にもこうだったのだろうかと思うと物凄く不愉快な気分になった。
撫子の元婚約者、どこか兄に似たあの男。
撫子の姉と結婚したらしいが、よくもまあ国が許したものだと思う。
罪人の家族という事もあるが、今までの婚約者が罪に問われたのでその被害者の姉と結婚するなど通常では失笑物では無いのだろうか。
まあ外の世界の事はもう俺の与り知らぬ所だ、気にしていても仕方がない。
結婚した以上はその婚約者はもう撫子に興味は無いだろうし、この空間に来る手段も無いだろう。
自分や撫子が特例なだけで、通常ならば発狂か死に一直線だ。
この自分の胸に生まれ始めた感情を明確にするための時間を邪魔するものは何も無い。
そういえば以前外の様子を見てからしばらく見ていない。
外の状況に関われないとはいえ、自分が生きた時代から百年後というのは色々と興味をそそられる。
まあこの部屋の中の方が文明は進んでいるのだが。
「撫子」
「どうかした?」
「いや、外の様子を見せてもらえないかと思ってな」
「それは良いけど……」
向けられる視線には心配の色が籠っている。
その感情に嬉しさを感じながら、もう一度見せてもらえるように頼んだ。
しばらく俺を見つめた後、わかったと返事をした彼女が遊具を置き二人で画面の方へ視線を向ける。
画面に外の景色が映りこんだ瞬間、息を飲んだのは同時だった。
「えっ、何……これ?」
「確かに二月以上見てはいなかったが」
口元を押さえながら見開いた目で画面を見つめる撫子。
画面に映る町の様子は以前見た時と様変わりしていた。
「寂しい町になってしまったな」
「ここに私が入れられてから、もうすぐ一年くらい、かな? 一年でこうなるの?」
以前見た時には平和に過ごしていた町の住人は一人も画面には映らない。
まるで放棄されてしまったかのように、生活の痕跡が見て取れない家々の間をゆっくりと移動していく映像。
「あっ」
町の中を小型の魔獣が走っている所が映り撫子の口から声が上がる。
以前は結界の端の方にしかいなかったはずだが、ここはもう町の中心付近のはずだ。
「結界、もう無くなっちゃったのかな?」
「もし無くなればもっと大型の魔獣が闊歩していてもおかしくはない。おそらく弱まった程度だと思うが。俺が此処に入れられた後の事は伝わっているのだろう? 結界はいつごろ機能しなくなったんだ?」
俺の問いに少し考えこんだ撫子が、首を少しかしげながら口を開く。
「歴史書で読んだだけだけど、一年なんて短期間じゃなかったと思う。その……当時の領主が三十代後半くらいで病に倒れたせいで結界が弱まったっていう話だから」
「俺が此処に入れられた時は兄は二十四歳程度だったはずだ。色々と誤魔化したにしても十年は持っているな」
「ならなんで今回は……」
「わからないな、そもそも結界に関しては謎が多い。維持者とはいえわからない事の方が……っ」
「ひっ……!」
撫子の手がガシリと俺の腕を掴む。
画面の中にいきなり小さな子供が走りこみ思いっきり地面に転倒した。
子供が顔を上げたすぐそばに屋根から飛び降りて来た魔獣が着地し、開いた口から尖った牙をのぞかせる。
魔獣が飛びかかった所で咄嗟に撫子を引き寄せて彼女の視界を塞ぐ。
牙が子供に届きそうになった瞬間、魔獣は吹き飛ばされるように画面から消えた。
「無事だ」
「え?」
恐る恐る顔を上げる撫子。
画面の中では子供が見覚えのある男に庇われていた。
「あ」
「君の元婚約者か」
持っていた刀で魔獣を倒したらしいあの男が子供に何かを話しかけている。
転んでいた子供を起き上がらせようとしたらしい男の手は、走ってきた母親らしき女性に弾かれた。
音は聞こえないが、口の動きから見ると、どうしてと繰り返している様だ。
女性の言葉に唇をかみしめる男。
女性が子供を抱き上げ、足早にその場を去っていく。
抱き上げられた事で肩越しに後ろを見る形になった子供が、男に向かってありがとうと叫んだようだ。
顔を上げた男と、肩を跳ね上げ慌てて走り去る女性。
「好かれてはいる、のか?」
「まあ、色々と信じやすくて騙されやすくはあるけど悪い人では無いからね。領主としては致命的だし、あの女性も代替わりした途端にこれだからあの人を責めたくなるんだろうけど。ああやって責められても権力を持ち出さない位には人は良いんだけど、その辺りも領主として分別をつけるように言われてはいたなあ」
どこか渋い顔でそう言う撫子はあの男の人柄を評価してはいるようだが本気で未練は無いらしい。
画面の中でうつむいた男が何かを呟く。
その唇の動きを読んで、カッと頭に血が上った。
衝動に突き動かされるように腕の中で庇ったままになっていた彼女を強く抱き込む。
「蘇芳さんっ?」
慌てたようにもがく彼女を逃がさないように抱き込みながら画面の中の男を睨んだ。
この映像に音が無くて良かった、彼女が唇の動きを読めなくて良かった。
「何が……」
「え?」
あの男が呟いた、腕の中の彼女の名前。
どうやら俺の予想とは違い、撫子の姉と結婚したにもかかわらず未練はあるらしい。
こんな場所に彼女を押し込んでおいて、間接的に死ねと言っておいて、まだ彼女を求めるつもりなのか。
うつむいた男が顔を上げ、近くにあった建物へ向かって歩き出す。
その姿勢よく前を向いて歩く姿が兄と重なった。
頭の中で交互に兄と男の顔が入れ替わる。
嫌だ、渡さない、返さない。
彼女だけは、渡さない……彼女だけは。
抱き込んでいた彼女の手がおずおずと背中に回り、ポンポンとあやすようにたたき出す。
以前俺が夢を見て抱き着いた時と同じ動きだ、どうやらまた俺が何か不安に襲われたと思っているらしい。
その手の動きと腕の中の体温に熱くなっていた頭が一気に冷静になってくる辺り効果は十分なようだが。
画面の中の男が建物の扉を開け中に入り、中にいた女性、撫子の姉に何らかの声を掛ける。
それを悲痛な顔で首を横に振ることで答える女に更に何か言っているようだが、こちらに背を向けた状態の映像では何を話しているのかはよくわからない。
女は絶対に嫌だと繰り返し何かを拒否したようで、男が頭を垂れる。
姉というだけあって女の顔立ちはどこか撫子と似通ってはいるが、撫子はあんな風に強い視線で拒絶する事は無いだろう。
そっと撫子の頭に顔を寄せる。
驚いたように体を跳ねさせた彼女は、一瞬間を置いてからまた俺を慰める様に手を動かしだす。
この大体の事は受け入れてくれる撫子と恋仲になった後にあの姉と夫婦になるのは確かにきついだろう。
ほんの少しだけあの男に同情した。