過去の話(蘇芳視点)
こちらをまっすぐに見据えて来る兄の顔を同じ様にまっすぐに見返す。
ああまたか、と腹の中がずっしりと重くなる感覚。
これは夢だ、わかってはいてもどうする事も出来ない夢。
……牢獄に入れられる前に過ごしていた日々の夢。
「兄さん、此度の同盟成立の書類、なぜ俺の名前が無いんだ」
「妙な事を言うな。同盟を成立させたのは私だ」
「確かに実際にあちらの国に赴いたのは兄さんだが、それまでの細かい調整や実際の条件を決めたのは俺だ。補助をしていた高官達の名前はあるのになぜ俺の名前だけを消す必要がある?」
「代表者の名前は一つあれば十分だろう? その方が良いと母さんも言っている」
「代表者でなくてもいい、高官たちの名前と同様に俺の名も記載してくれと言っているんだ」
「高官たちの名は書いておかねば彼らの家の功績にならないだろう? お前は私と同じ家の人間なのだから書かずとも家への評価は入る」
「家へはな、俺自身の評価はどうなる? 高官の中には俺が何もしていないと評価している人間もいるのだぞ」
必死に目の前の兄に食って掛かる自分を離れた所から見つめながら、無駄な事をと思う。
首をかしげる兄は本気でわかっていないのだ。
本気で俺の名前を書く必要は無いと思っている。
これは俺が反旗を翻す前の兄との記憶だ。
もう百年以上経っているというのにこんなにしっかりと夢に見る事が出来るとは、我ながら女々しい事だと笑う。
早く目が覚めないだろうか、この後の流れはもう見たくない。
早く起きて撫子と朝食を食べて、いつも通りのんびりと過ごしたい。
そう思っているのに目の前の景色は変わってしまう。
結局兄にはわかってもらえず冷たい目でいい加減にしろと言われて追い払われ、唇を噛みしめながら自分の部屋に戻った時だ。
部屋の前に一人の女性が立っているのが見えて歩みを止める自分。
「貴方またあの子に迷惑をかけたのね」
「……俺は当然の主張をしただけです。同盟成立の功労者の中にちゃんと俺の名前を入れてほしいと」
「それが迷惑だと言っているのよ、いい加減に理解しなさい」
美しい顔を嫌そうに歪ませ、ため息を吐く女性。
腹の底にさらにずしりと嫌な重みが増えたのを感じる。
「母さん、俺は……」
「言い訳はいらないわ。貴方の名前もいらない。この国を治めるのはあの子なんだから、弟である貴方がやった事をあの子の手柄にするのは当たり前でしょう」
この夢を見るたびに思う、この人は本当に俺の実の母なのだろうかと。
実は俺は側室の子だと言われた方がしっくりとくる扱いだ。
今度は母に食って掛かる自分にもう諦めろと言いたい。
この人は悪意無く俺の評価を消す兄と違って、悪意に満ちた心で俺の手柄を排除する。
異常なまでに兄を愛して俺を憎むこの人がその理由を話してくれる事は無かったけれど。
今にして思えば、兄に色々と吹き込んでいたのはこの母だ。
素直な兄は親である母を疑わなかった。
母が言っているのだから正しいのだろうと、本気でそう思っている様だったし。
俺の必死の訴えを聞こうともせず、冷たい目でこちらを一瞥して去っていく母の背を見送る自分がとても情けなく見えた。
そして場面はまた変わる、我が夢ながら忙しない事だと自嘲した。
目の前に立つのは兄でも母でもない色黒の青年。
俺がやってきた事を信じてくれていた明るい笑顔が良く似合う友……だった男。
その友の表情は硬く、笑顔は微塵も見られない。
これは反乱を起こした後だったな、反乱が終わるきっかけになった会話は今も俺の頭の中に残ったままだ。
「お前が維持者だと言う証拠はどこにある? お前が国を出た今も結界は機能しているじゃないか」
「結界には予備の力を蓄えておく機能がある筈だ。それを使っているんだろう」
「だがその機能があるかどうかもお前の感覚での判断なのだろう」
「それは……」
「……国に残してきた妻から子供が生まれると連絡が来た。悪いがもう証拠も無い状態でお前に付き合ってはいられない。今、国に戻れば俺や家族への罪は問わないと領主側からの通達も来ている」
「そう、か……わかった。今まですまなかった」
「お前はこれからどうするんだ?」
「もう俺に付き従う部下もいない。国にも戻れないし戻る気も無い。母や兄に処刑されるのはごめんだ。自分の人生の幕引きは自分でするさ。そうだな、あの湖の畔なんかいいかもしれないな」
「……そうか」
こぶしを握り締めた友が背を向けて去っていくのをじっと見つめた後、どうしようもない気持ちを抱えながら立ち上がる。
仕方の無い事だ、あいつには守るものがある。
……俺の人生は何だったんだろう。
自分も国のために動いていた事を認めてほしいという願いは結局叶う事は無かった。
反乱前に願った維持者の儀式を一度やり直してほしいという頼みも聞き遂げられず、結局今は一人きりだ。
せめて最後はこのまま一人でひっそりと死にたい、そんな俺の最後の願いは他ならぬ友の手によって叶わなくなってしまった。
死に場所に決めた湖に着いた俺は兄の軍勢に囲まれ、この永遠の牢獄に押し込まれる事になった。
この湖の場所を知っていたのは俺と友だけ、兄に見つからずに死ぬにはちょうどいい場所だ。
道は分かれても友だけは俺の事をわかってくれているだろう。
そんな俺の思いは兄の後ろに立つ友を見つけた事で粉々に打ち砕かれる事になった。
反乱を起こした不穏分子である以上、どんな刑を受けても文句など言える立場では無いのはわかっている。
けれど自分の功績はことごとく消され、維持者の儀式もやり直しては貰えず、せめて最後は静かに死にたいという願いすら友が兄に情報を流した事で打ち砕かれ。
この牢獄の入り口に押し込まれながら何故、何故だと叫ぶ自分を見ようともしない友だった男。
なあ、俺はお前を信じて国へ戻るのを止めなかったんだ。
お前の幸せを邪魔したくない、今まで信じて来てくれたお前が罪に問われない内に愛する人間の元へ返してやりたいと思ったんだ。
お前は違ったのか、俺とは友でなかったのか。
静かに閉じられた空間の入り口の向こうと永遠に決別した今、もうあの男の考えなどわかる筈も無い。
ただ一つだけ確かな事は、自分があると信じていたあの男との友情はあの時にはもう存在しなかったという事だ。
信じていた、だから死に場所すら当然の様に口にした。
まさかその情報が兄に渡されるなど、あの時の自分は間抜けにも全く思っていなかったのだ。
白しかない部屋で呆然と座り込む自分。
さっきまで別の視点で自分を見ていたはずの夢はいつの間にか自分自身で動く様に変わっている。
当時感じていた気が狂いそうな気持ちが頭を、心を埋めていく。
ここに持ち込んだのは愛刀と、ずっとつけてきた自分の仕事日誌だけ。
もう何もない、友も、部下も、俺の存在すらあの場所から無くなった、なのに俺はどうして狂えない、どうして死ねない。
維持者だと認められる事は最後まで無かったのに、今度はその維持者の力が俺を苦しめる。
最後に誰かに笑いかけてもらったのはいつだっただろう、優しく名前を呼んでもらったのはいつだっただろう。
一人きりでさ迷い歩きながらひたすらに、誰か、誰かと頭の中で繰り返す。
長い時間を不愉快な色の混じる空間と真っ白な部屋を行き来しながら惰性のように歩き続けた。
不思議な音を耳が捉えたのはそんな時だ。
目の前の部屋から聞いた事の無い音が聞こえて、歩みを止めてゆっくりと入り口に手を伸ばす自分。
早く、早く、今の自分はそこに誰がいるのか知っている。
急いた心とは裏腹に体はゆっくりと扉を開けて、中にあった不思議な物を見回す。
奥の部屋の扉が開き、出て来た彼女の黒い瞳が驚きで見開かれる。
そこでようやく目が覚めた。
布団を跳ね上げ、荒くなった呼吸を整えようと必死に深呼吸を繰り返す。
白以外がある部屋を見回し、こちらが現実なのだと必死に言い聞かせる。
……本当にこちらが現実なのか、実はまだ一人であの空間をさ迷っているのではないのか。
いつもならしばらくすれば落ち着くそんな考えが全く頭から消えず、たまらず撫子の部屋へ繋がる扉を勢いよく開けた。
部屋の入り口に飾られた造花を取り変えようとしていたらしい彼女の驚いたような瞳がこちらへ向けられる。
彼女の口が開く前にその体を無理やり引き寄せて腕の中に閉じ込め、ズルズルと座り込む。
腕の中に感じる体温にようやくホッとして息を吐き出した。
流石にここまで密着した事は無かったせいかオロオロしている様子だった彼女の手が、なだめる様に俺の背中をポンポンと叩く。
「……蘇芳さん?」
自分の名を呼ぶ声、敵意も悪意も無い、心配そうな声。
笑顔も、好意も、信頼も、自分が欲しかったものが今この空間にある。
後少しだけ、そう心の中で言い訳して彼女の心配そうな声を聞きながら腕に力を込めた。