神の存在証明:Quod Deus Sit
私の尤も旧い記憶は、私が五歳の頃に兄が死に、幻覚の中で生きた兄を見ていたことだ。
兄は私以上に神童であった。
幻覚の兄は私に、家を継ぐのはお前なのだから、必ず立派に成れ、と何時も繰り返していた。私は其れに取り憑かれていたことのみを記憶している。
私の幼少期は奇妙なものであった。
兄が死に、三人の姉と一人の妹と私。父親以外に男がいない家庭であり、其の父親も余り私に接触する機会が多いとは云え無かったので、殆ど女とばかり一緒にいた。
朱に交われば赤くなるなどと昔の人間は云ったようだが、私はそのような影響は受けなかった。
唯、自分とは異質な性を持つ者達と私との違いを、他の誰よりも知ってしまい、また、それ故に私は幼くして女性不信と成る羽目になった。
十五の頃、既に私は数学と物理、及び化学の分野では、他の誰よりもー少なくとも同学年の猿共と較べればー秀でた才能を持つまでに成長した。
然し、学舎において私には友人と呼べる者は居なかった。
騒がしく、姦しく、喧しい奴等と私は、根本的にそりが合わなかったからだ。
とは言え、私にも一人だけ友と呼べる人物は居た。
彼に教養はないが知的な人物あり、一種の見識を生じていた。
友人の名はフィッツゼラルド。
私が殺すことになった女の恋人だった。
十八歳の時、私は基督教が嫌いに成った。
基督の訓えは、人々に妥協という名の奴隷精神を刷り込み、佳い行いをせねばならぬと決めつけ、真の意味で自由意志を奪う。更に、教会の搾取による弱者の怨恨の根源ともなり、人間の社会を退廃させるものだと私は考えていた。
然し、友人のフィッツゼラルドは敬虔なる基督教徒という奴であり、私を頻りに基督教へと誘った。
何度も断りはしたが、その度にフィッツゼラルドは私のことを執拗に誘って来る。
流石に億劫になった私は、一度だけミサに参加することにした。だが、其処で私が何も感じ得なかったならば、二度と基督教へと勧誘してくれるな、とフィッツゼラルドに云った。
彼は承諾し、ミサへと私を連れ出した。しかし、矢張りと云うべきか。私はミサで何も得るものは無かった。
唯だ、敬虔なる基督教徒共が同じ動作をもって礼拝する姿に、一種の滑稽さと不気味さを感じたのみである。
私は、矢張り興味は持てない、と彼に告げた。すると、彼は暫く待ってはくれないか、と私に云った。
暫くすると、彼は彼の恋人を連れてきた。
彼女ならば君を変えられる筈だ。後生だから最後に彼女と少し交流を持ってくれないか、と彼は云った。
私は、彼の何故ここまでするのかという程の勧誘に、頗る不気味なものを、この瞬間に強く感じた。だが、友人の頼みならば仕方が無いと私は思ってしまった。
これが、私の人生最大の過ちであったことは疑うべくもない。
フィッツゼラルドの恋人であるヘレネは、何処か普通の女とは違っていた。
彼女は娼婦だというが、その事を恥じてはいない。寧ろ其れ処か誇りにすら思っているようだ。
彼女の言い分では、基督教を信じるということは絶対的な善で、娼婦か否かなどということは、些細な問題に過ぎないという。
また、彼女に拠ると、自分は貧民街の人間であり、九割の人間は彼女の歳まで生きられない。その中で自分が生きているのは、正に神の意に従った故であるのだから、自分の行いは正しい筈との事だ。
狂っている。そう思った。
ヘレネは神を狂信し、妄信し、過信している。
ヘレネと交流をもって三ヶ月が経った頃、私は不意に、ヘレネの胸にナイフを当て、こう云った。
若し、君がこのナイフで自決すれば私は基督教徒と成ってやる、と云えばどうするか、と。
するとヘレネは私の手からナイフを奪い取り、躊躇うことなく頸動脈を掻き切った。
私は余りに突然のことで呆然としたが、次の瞬間ヘレネの腹部を全力を持って蹴りつけた。
其れは、ヘレネが苦悶の表情を浮かべていたからだ。
私の明らかな冗談を真に受け、自分で行動を起こしておきながら苦しむなど余りに身勝手だ。
結局、ヘレネが死ぬまでに私は彼女を三十六回蹴りつけ、幾本かの骨を圧し折った。
だが、ヘレネは死に際に、如何にしてかは解らないが、か細い声で、それでも矢張り、あなたは基督教徒にはならないのでしょうね、と云った。
私には其れが頗る惧ろしかった。
私の父親は伯爵であり、ヘレネは貧民街の人間だ。この程度のことを揉み消すなど容易かった。この日を境に、私の人生は奇妙な方向へと進み出した。
私は三十歳少し手前にして、亜米利加に居た。
私は諳厄里亜の国教会の奴等が嫌いだ。彼奴らも私のことが嫌いだからな。だが、亜米利加のプロテスタントなる宗派の奴等はなかなか話せる。
時代に伴い変化した宗教だけあって、寛容な態度だ。
亜米利加では私の研究もそれなりに高く評価されている事もあり、善い國だと思う。
だが、努力こそ発明の大原則とほざきながら、自分自身のことを才能溢れる偉人だと思ってるアイツにはほとほとうんざりさせられる。
また、本職と並行して神の存在についても研究を始めた。亜米利加の牧師らは、何を聞いても応えて呉れるので非常にやりやすい。
然し、神は空にいると云う俗説に対し、人間が空を飛べるようになると、奴等は神は宇宙の中心にいるのだと云い始めた。
ならば、私は天国ではなく地獄を探さなければならない。私はそう考えた。
四十歳にして、私は務めていた会社を辞めた。
冗談は嫌いではないが、賭けたものを冗談で済ます奴など、畜生にも劣る外道だ。そんな奴が経営してる会社に、一秒たりともいたくなかったからだ。
無職になり生活は困窮していたが、お陰様と云うべきか、神の存在に関する研究を驀地に行うことが出来た。
地獄を見つけるために、私は巨大な穴を作ることを考えたが、それは現実的ではないことがわかった。それならば、掘削するのではなく地球を割るしかない。そう、私はこの地球をりんごを割るように真っ二つにすることが出来る!
そのためにも、私の考えた世界システムにより全世界の電気を掌握する必要がある。そしてその電気を如何にしてか運動エネルギィに変え、ある特定の方向に力を加えることで地球を割る事が出来る筈だ。
私の研究は日に日に確かなものへと変わっていった。
職を失って一年。私はついに地球を真っ二つに割る方法を編み出した。
先ず、地球の自転する力から、常に一パァセントを取り出す。これを千日続ける。
本当は九百日でいいのだが、千という数字は縁起だ。基督教では千は重要な数字であるから。
そして、エルサレム及び地球の中心を通る面と、地球の表層が交わる地点に、エルサレムを基準として百キロメェトルずつに加速装置を置く。この加速装置は一箇所に二つ、それぞれ逆の方向に加速させるように置かねばならない。
全て設置した後に迎える、初めの新月の日に地球の破壊を実行する。
新月の日の午前二時十八分三十六秒。四百箇所に置かれた加速装置に、自転と順行して加速するものと逆行するもののエネルギィ比が五百対五百一になるようにする。然して十のマイナス二十三乗秒から十のマイナス二十二乗秒の間に全化学エネルギィを運動エネルギィに置換。
之に拠って地球は二つに分断される。之を私が生きている内に実行するのは、希望的観測をする文學者共にとっては零ではないかも知らぬが、数学的には零である。故に、私は誰かに之を引き継がばならない。
そう考え、私は一人の養子をとった。彼の名はノーヴ・L・ スミス。渾名はノ ーヴェルだ。
ノーヴェルが充分に成長し、私の研究を教えんか教えんか、と悩んでいた或る日、私は黄金の雨を見た。
驟雨の如く降り注ぐ其れは、硝子越しに観ていても暖かさが伝わってくる様であった。
次に爆音が聞こえた。世界中に響き渡り、地下にすら聞こえるのではないかと言うほどとてつもなく巨大な音。それは、今考えれば確に喇叭の音であった。
そして、気が付くと雨が止み、替わりに七色に輝く羽が降っていた。私の知るどの鳥の羽よりも軽く、美しく、丈夫な羽が。その羽は地面に触れると蒼い炎に包まれ、灰も生じず消える。其の炎に熱は莫く、唯唯羽を消すためだけに存在する炎のように思えた。
最後に、私は神を見た。神は人間に似ていなかった。何にも似ていない。それでいて究極であり、完全であり、至高の存在であった。神は、近くに見えるようであり、然しウラヌスよりも彼方にいるようでもある。
神を見た時、神の他に何も無かった。家も、街も、人も、大気も、そして、私自身も。神は、何も云わ無かった。神と邂逅したと思った時、既に私は私としての意識を恢復した。
其れが何であったのか、私は解らない。然し、私は私の研究が正しいことの確信を得ることができ、それによって何が起きるかを理解した。
私が一度地獄の門を開けば、現世は地獄となる。其処に苦痛はないが幸せもない。完全なる無窮がおとずれる。無に還るのではない。ただ無窮のみが存在する世界となるのだ。
そして、人間は生きることも死ぬこともなく、唯ひたすら無窮に忍ぶ。其処に救済はない。二度と神による救済も訪れることは無い。
地獄のことを理解し、研究の実行を躊躇って一年。私は遂に天国へと辿り着く方法をも理解した。
天国は地獄と違い、物理的な方法での到達は不可能である。唯、以下のものによって成される。
・ ヘブライの神を見る二つの凶なる魂
・ 輪廻転生の輪を砕きし系譜八番目の蓬莱人
・ 紅の王に捧げられし七つの黄金からなる鎮魂歌
・ 千の山と千の川の終点
・ 快楽を見つめる八十八の鉱物
・ 地獄を願う全ての三千世界統治者のアルファ
但し、天国が如何なる場所か、其れは私にもさっぱり解らない。
若しかすると、其処は地獄よりも酷い場所であることも充分考えられる。だが、地獄には救いがない。ならば、私たちは天国を目指さねばならないだろう。
たとえ、それがどのような世界であったとしても。
然し訊け、私の詞を注意して訊け!
神は決して人間の救済を考えているとは限らない。其れ処か、神は増えすぎた人間を面白く思わず、気楽に管理出来る数まで減らそうとすら考えているやも知れぬ!
心せよ!その中でも神は烏滸がましき者を嫌う!善なる者よ、貴様らは惡なる者よりも遥かに烏滸がましいことを自覚し、改めねばならぬ!ゆめゆめ、神の意思を理解したり、自助努力で救済されるなどと思わぬ事だ!
神の意思を理解したものは基督が最後であり、然して自助努力により救済されたものは唯の独りもなし。惡人に成れと云うのではない。
だが、悔い改めよ!神の国は確実に近づいたのだから!烏滸がましき者の善は偽善と同義である。然して、心に留めておくといい。之こそ、私の神の存在証明研究の集大成にして、人類を導く最後の戒めだ!
余談だが、私の死期は近い。限りなく近い。そして、それは回避も延長も不可能である。
私は、死を前にして基督教徒と成った。だが、矢張りと云うべきか、少なくとも私の住んでいた地域の基督教の中は、欺瞞と偽善で満ちていた。
彼らの歌う讃美歌は美しい不協和音であり、彼らの礼拝は丁寧に似て慇懃無礼である。
彼らは基督教徒となるだけで救われると考えているのだろう。しかし、結局のところ基督教徒と成るだけで救われ、更に加入しない者は例外なく地獄行き、などという都合の善い話など在る筈がない。
それは、余りにも烏滸がましい。最後となったが私の美しき妻ヘレネよ、君の人生を私のようなものの為に捧げさせたことを赦してくれ。如何に君が私の想いを理解し、また誇りに想ってくれたとしても、私は君の人生をこのような形で浪費させたことを心苦しく思うのだ。
然し、君がいなければ私は研究を成し遂げることは難しかっただろう。そして、有難う。君は(以下数十文字、何かの液体の為、乱れて判読不明)
之にて私の生涯最後となる執筆を終える。