大家と店子の関係
旧ナンバリングでは その1の一部
香ちゃんはある日、母親から新しい住人に部屋を貸す事にした。との説明を受けた。
香ちゃんが生まれてから、このアパートに自分と母親以外の初めての住人だという事で、ウキウキして、アパート中を駆け巡ったとの話だ。……微笑ましい。
母親の話すその家族の事情(兄妹の外見やそれまで暮らしていた家の場所など)を聞いていたという。
だが、話を聞いていくうちに、熱狂的な興奮が冷め、香ちゃんは早急に偽設楽家との面接の必要性を感じたという。
香ちゃんはこれから発生しかねない、母親の心労を軽減する為、自ら会ってみようと思った。
『お母さんが会った芸能人みたいに綺麗なお姉さん達に会って話をしてみたい』、香ちゃんは、そう切り出したらしい。
面談の日程が決定する頃には、香ちゃん側の準備は万端だったようだ。
その場に三人で並んでスキップをしながらノコノコと現れた、我ら三人。
幸せいっぱい、夢いっぱい。そして無為無策の偽設楽家の三人。
てっきり入居時の契約だけだと思っていたので、用意していたのは、引越しを夢見て屋敷内のアルバイトでコツコツと貯めていたため、茶菓子などは用意できず、カイリスと杏子が真心をこめて作った会心の出来であった感謝のこもった山菜の漬け物バラエティセットだけだった。
少し質問をぶつけてみた香ちゃんはすぐにピンと来たらしい。
漬け物は非常にウマイがこの連中、色々とマズイと。
のほほんと現れた我々は、小学生らしい溌剌とした態度と無邪気でありつつ巧みな話術に誘導されていると知らずに、偽設楽家の門外不出な家族の出生以外の境遇を洗いざらい喋った。
特におれは家長となる事への自尊心が肥大化していたため、ペラペラと喋った。
いまだ秘密にしてある珍妙三兄妹のダミー出生話については、香ちゃんは、今も時々納得いく説明をしろと言ってくる。緊張と緩和という外交戦術を、仲良くなった今でさえ的確に繰り出してくるのだ。
学校の勉強はカイリスと同じ位、お馬鹿なのに、末恐ろしい大家代理だ。
入居当初、香ちゃんの攻勢は苛烈を極めた。
地元どころか、世界的にも有名な大豪邸から越してきた目的不明な胡散臭い偽設楽家を追い出し、アパートの平和を守ろうと、彼女はえげつ無い態度で入居後間もなく、追い出し作戦を仕掛けてきた。
偽設楽家も必死の抵抗を試みた。
おれ達が開戦の狼煙に気付く前から戦況は悪化の一途を辿った。
我が事ながら、兄妹設定に日頃から疑念を抱いていた我々と、後ろ暗い事のない香ちゃんとでは、はなから戦いにすらならなかった。
相手は大局視点で戦略を立て、緻密で大胆な作戦を次々実行してきた。
一方、偽設楽家といえば、ジワリジワリと積み重なった小さな嘘(九割九分九厘、おれのその場しのぎの嘘)で身動きが取れなくなりつつある事を感じながらも、どうする事もできないでいた。
偽設楽家の参謀兼財務担当であるカイリスは、苦し紛れだが、効果のある局所的戦術的の現物(戸籍謄本や住民票)作戦で対抗する。
だが敵もさるもの、香ちゃんは小学生という無知さを最大限に発揮し、大人の対応を拒否。
彼女は断然優位である立場の土俵を譲らない。
偽設楽一家は着実に、敗北…そして宿無しへ。の道へと邁進しつつあった。
参謀は嘆息しつつ敗戦処理として、新しい住み処を探そうと動き出し、友好親善大使である杏子はワタワタと無意味に慌てながら友好関係を構築を試みつつ、偽設楽家が用意できる贈り物である浅漬けの品質(子供好みの甘みを付与)を高める事に成功。
偽設楽家全員が一丸となって、東奔西走していた。
ここからはカイリス曰く、
Dデイを受け入れつつあったある日、唐突に香ちゃんの攻勢が止んだ。
それどころか、自分と杏子に非常に友好的になった。
フランクに言えば二人に対し、めっちゃ懐きだした。
いまだにカイリスと杏子はアヒル荘七不思議の一つと考えている。
その真相はと言えば、小さな嘘をせっせと砂上の楼閣のごとく積み重ねたおれは、対香ちゃん戦で早々に参謀と親善大使からやんわりと戦力外通告を言い渡されたので、その償いとして新入居先探しに文字通り走り回り、額に汗していたところ、たまたま、香ちゃんがあるゲームにドハマリしている現場を目撃したのだ。
その光景を世間話のついでに大家さんに話してみると、我が家の窮状を知る大家さんは、茶目っ気たっぷり、イタズラに胸を躍らせるかのような心持を瞳に宿しながら、この賄賂の策を授けてくれた。
上限は一ヶ月一回五百円以内でお願いします。
との大家さんの言葉に半信半疑ながら従い、なんとか金を集めて渡してみた所……といった感じだ。
以来、ゲームカードの袖の下は、毎月定期的に香ちゃんに渡していた。
親公認とはいえ、罪悪感を感じてしまうので、代わりにというか、身勝手な罪悪感の軽減というか、香ちゃんへの質の良い教育を目指すというプロジェクトを発案し、事情の知らぬカイリスと杏子の惜しみない賞賛を受け、圧倒的支持を得て発足させる事ができた。
おれ単独としても、アパートの為になるような肉体労働系等を誠心誠意努めてはいるので、そろそろおれへの風当たりも見直して欲しいのだが……もうやめよう。
考えすぎると、おれとは対照的に香ちゃんから思い切り好かれているカイリスと杏子に、この裏事情を話して、愚痴を言いたくなってくる。
この黒い贈賄の日から、大家さんの想定通り香ちゃんの我々に対する態度が急激に軟化した。というか完全に氷解した。
香ちゃんは、とびきり人懐っこい子猫のように、カイリスと杏子の二人になつきだし、姉として大いに慕った。
二人は急にテンションマックスで懐かれだした要因が解らないながらも、その事を嬉しがりつつ頭をひねっている次第だ。
だが、おれには、この賄賂について、誰にも相談できない、苦い思いがある。
贈賄する度に、この件と密接な関係があったが故に、背筋が凍るもう一つの事件の記憶が付随されるのも毎度毎度、憂鬱になる。
初回の賄賂購入資金を捻出する為、カイリス管理の家計用財布から金を抜いた。
補填の手段は考えてあったのだが、日数が必要だったので二日ほど、そのコソドロ行為がバレなければよかったので、それはそれは本当に軽い、かぁ~るい気持ちだった。
方々を回り、日雇いの段取りを整え、精神的に疲れたが大変満足して帰宅した。
そして心地よい疲労と失態続きだった為、名誉挽回の一手に自ら酔っていたのだろう、おれはリアリティある嘘の用意とその説明を後回しでいいや。と、くつろいぎ、そのまま昼寝をして、夕方まで眠ってしまった。
そしてその夕方、目を覚ますと、コソドロ行為がバレていた。
寝起きと、使用用途を秘す必要があった事と、二人の落ち込んでいる雰囲気に飲まれまくり、説明もしどろもどろになり、予定していた嘘は、それはそれは嘘くさい嘘へと変貌した。
本当の話なのに、日雇いの話も一気に嘘くさくなった所で釈明を諦めた。
開きなおって、二人の説教とお叱りを覚悟した。暗愚なおれは、それが男らしいと思ってしまったのだ。
しかしおれの取った説明放棄の行動は、予測を遥かに下回る結果となった。
本当の意味で『おれ』を慕う二人の事を解っていなかった。
新生活を始めた事に胡座をかき、馬鹿面のまま、何も考えずに、幸せをただ幸せとして、享受していただけだった。
二人は、ただの一言も責めてこなかった。
金の使い道すらも追求されなかった。
ただ二人に誠心誠意詫びられ、そして――泣かれた。
おれを責めての怒りの涙ならば、どれだけよかった事だろう。
二人はこの件は全て、自分達のいたらなさだと断じ、二人は静かに泣いた。
勝手なイメージで人前で涙を見せる事はなかろうと、おれが思っていたカイリスは何度も「私たちが不甲斐なくてマスターに貧乏な思いをさせてしまってごめんね」と謝りながら、ボロボロと冗談みたいな大粒の涙を彼女の、白くか細い手の甲や薄汚れた畳に散々吸わせた。
杏子は先に泣き出してしまったカイリスをなだめながら、自らも目に涙を溜め、必死に落涙を抑えようとしながらも叶わず、カイリスを庇い、己の不甲斐なさを嘆き、ずっと、本当にずっとおれに謝っていた。
それに対しておれにできた唯一の手立ては『もういい、泣くな。忘れよう』の主人ぶった一言だった。
なんという傲慢。でも二人をなんとか泣き止ませる手立ては、そんな汚泥のクソみたいな演技しか選択肢はなかった。
おまえらの不甲斐なさが身に染みたか? だからもう泣かず、前向きに皆で頑張ろうっという態度を二人に対して演じて見せた。
苦痛に満ち満ちた大根役者のハム演技。
演じながらおれは自分をボコボコに殴ってやりたい衝動を、グッと抑え続けた。
その夜、安直な自分の行動に自分自身で腹をたて、自らに体罰を科そうと思ったが二人の悲しみが大きくなるだけだと思い直し、それすらもできなかった。
絶対にあんな思いをしたくない、いや、あんな思いさせたくない!
こうして二人の涙はおれにとってトラウマとなり、きっと二人は無自覚だろうが、そのまま彼女らの伝家の宝刀となった。
こういった鬱の極地のような事を百%思い出すので、おれもこの賄賂を渡す行為は大嫌いだ。
ご機嫌になった香ちゃんは我が家の近況報告に満足し「そうか、店子!ならばよし!」と、明治時代の有力者が住み込み書生を褒めるようにカカッと笑い、背伸びをしておれの肩を数度叩いた後、サンダルを高らかに鳴らしながら帰っていった。
ここ数日、香ちゃんの機嫌が悪かった理由は見事に解消した。
しかしそこから導き出された解答は、より深い悲しみの色に彩られている。
妹二人からの香ちゃん最新情報には、不機嫌等のネガティブでワーニング的な点はなく、二人には変わらず懐いているという事実のみが共有されていた。
カイリスと杏子の二人は香ちゃんに対して、その人間性を存分に発揮し、順調に香ちゃんとの絆を深めているようだ。さすがはカイリスと杏子だと誇らしく思う。
でも、自分の気持ちに正直になれば、ここ数日の香ちゃんの不機嫌さは、おれ限定だったのが、とてもとても、とても悲しかった。
冷え冷えとした廊下が一層寒くなるのを感じながら店子のおれは、脱力感と戦いながらトボトボと部屋へと戻った。