夢は現を侵食する。
長らく投稿が停滞してしまい申し訳ありませんでした。
次話完結予定です。
妹がいる世界が現実。
妹がいない世界が夢。
ほら、簡単なことだろう?
「兄上様、おはようございます」
鈴のように軽やかな声とともに部屋に眩しい光が入ってくる。ぱちりと瞼を開けると傍近くに妹が座っているのが見えた。
「おはよう。今日は調子が良さそうだ」
そう言葉をかけると彼女はころころと笑った。袂を口に寄せ、目を細めながら。
俺は彼女がそうして無邪気に笑っている姿を見るのが一番好きだった。
「まあ、兄上様。ここ最近の私は体調を崩したことなどないでしょうに」
「そうだったな」
二人で顔を見合わせ、笑う。この邸には俺と妹しかいない。誰にも憚ることなく声を掛けて笑うことの出来るこの空間が俺にとっては何よりも大切なものだった。
一条のはずれにある小野邸。その邸はとあることで有名だった。
“決して召使の類を置かぬ邸”
余程下位の貴族でもない限り、邸には必ず下男下女といった者共を置く。その邸の主の財や趣向によって人数の大小こそあるが全く置かない、ということはほとんどない。日常の雑用の他にも貴族というものは頻繁に自邸で宴を開くのでどうしても人手がいるのだ。
だが、俺は一切召使をこの家に入れるつもりは無い。大した理由がある訳ではない。ただ必要ないからだ。俺は貴族の社交とやらに積極的に参加する気も無ければ身の回りの世話も自分でできる。質素な生活が好きな俺にとってみれば召使など無用の長物でしかないのだ。
妹は俺のように質素な生活を好むというわけではないが、傍に見知らぬ他人を置くことをひどく嫌った。乳飲み子の頃から彼女の面倒を見ていた乳母でさえ物心がつき始めた頃から少しずつ遠ざけるようになり、しまいには実の両親でさえ迂闊には近寄れなくなった。親子関係の希薄な家でなければこのようなことは起こらなかったのだろう。しかし両親は特段気に病むことも無く、妹が唯一慕う俺に一切合切を放り投げてきた。
俺は幸せだ。妹と同じ時を過ごしているこの他愛無い瞬間が愛おしくてたまらない。
_____オレハソウ、アイニウエテイルコドモダッタ・・・。
朝餉を持って参りますと席をはずした妹の後ろ姿を目で追う。ぬばたまの黒髪がさらりさらりと彼女の背をなまめかしく覆う。あんなにも幼かった少女はもう大人と言ってもいいほどの齢になった。
俺に置いて行かれると涙目になったあの子はもう子供ではなく、女になってしまった。ふわりと漂う彼女の残り香に何とも寂しい気持ちになった。
「兄上様?どうかなさいましたか?」
「いや、お前ももう大人になってしまったのだなと思ってだな」
たすきで軽く着物をまとめ、お膳を運んできた妹は手早く俺の前に器を並べる。ふわりと盛られた米からは白い湯気がこぼれていた。
朝餉はいつも一人。俺よりもはるかに早起きな妹はいつも俺よりも先に朝餉を済ましてしまう。妹は俺のためにもう一度かまどに火を入れるのだ。妹を朝早くから働かせてしまうことには罪悪感を覚えるが、妹が気にしないでほしいというので謝ることは控えることにしている。
「いつもありがとう」
きっとこのように感謝をする方が妹は喜んでくれるから。
「どうぞ温かいうちにお召し上がりくださいませ」
ふわりとそのまろやかな頬に浮かべた笑みだけはこれほどの年月が過ぎようとも、変わらない。
「今宵の夢見はいかがでしたか?」
「いつも通り。おかしなことの連続だったよ」
朝餉の席での話題はいつも同じ。俺が見た訳の分からぬ夢の話。
俺の記憶のある限り夢を見ずに眠れた夜はある状況下の場合を除けばほとんどない。起きてからも思いだせるその夢はまるで現実にあったかのように俺の脳裏に鮮明に焼き付いて離れない。昼日中に起きたことは忘れても夢の内容はたとえ10年前のことだろうとはっきりと思いだせる。
昔は夢の内容にもばらつきがあった。恐ろしいモノ、楽しいモノ。美しい世界に迷い込んだこともあれば、辺り一面が暗闇の世界に放り込まれたこともある。
しかし、この都に帰ってきてからというものの、決まって同じ内容の夢を見る。
「今上帝に拝謁なさったのですか?」
「そう。と言っても直にご尊顔を眺めたことなど無いからおそらく、としか言いようがないが」
「なんとも不思議なことですね」
「本当にね。そうそう、これから当分は昼であってもあまり一人で出歩くなよ」
「何故です?」
小首を傾げる妹。唐突にこのようなことを言われたのだからとまどうのも当然だ。
「…殺人鬼が都を徘徊しているからだ」
「夢のお話では?」
「現実にならないとも限らない。気を付けておいて損はないだろう」
都に来てから見る夢は幼い頃のものとは違い、現実世界と繋がっていることも少なくなかった。それ故にどこか夢と現との境界線があやふやになってきているように感じる。
夢の中での俺は今が現実と信じ切って疑うことすらしなかった。現実味の無い行動をしているというのに出来て当たり前としか思っていなかった。
何が夢か現実かいつか分からなくなってしまうのではないか。
それが俺にはとても恐ろしい。
そのようなことを考えていたせいか、妹の顔が揺らいだ気がした。妹がどこかに行ってしまいそうな、そんな不安に苛まれる。止めてくれどうか。
妹だけは、***ないでくれ。
遠くない未来、妹は俺の元を去り、どこぞの男の元に嫁ぐことになる。妹にとってはそれが幸せなことだと分かってはいる。それでも、俺は・・・。
「兄上様、顔色が優れないようですが」
「大丈夫」
妹の言葉を遮り、止まっていた箸をすすめる。温かく、美味しい。妹を心配させることだけはあってならない。妹だけが俺の家族、だから。
「兄上様」
食事を終えるまで神妙な顔つきで俺のことをうかがっていた妹が俺の傍までついと膝を進める。そっと俺の手を取るとそのまま自らの胸の辺りまで持っていき、目を伏せささやく。
「どうか兄上様。心配事は全て私にお聞かせくださいませ。私がすべて解決してみせます」
それはきっと嘘。彼女は“神”でもなければ“仏”でもない。“俺の妹”なのだから。
だが俺にとっては十分すぎる言葉。
「私は絶対に兄上様の傍を離れたりはしませぬ。兄上様のことは私が守ってみせます」
開かれた瞳にゆらりと月が浮かんでいるように見えた。