桜だけがすべてを知っている。
今回は三人称です。
ふわり、と風が抜けた。庭に咲き誇る桜はその風に耐えられず、思わず薄紅色の花弁をこぼす。ふわり、ふわりと揺れながら透明な液体がなみなみと注がれた器へと桜の欠片は身を沈めた。
その様を脇息に身を預けた男が穏やかな表情で眺めている。男の頭には冠が乗っているが、その冠は男がこの国の至高の位にいることを示していた。
男の視線の先には花びらを浮かべた二つの酒器。真白の器は渡来のもの特有の光沢を放っている。
「風雅ですね」
男以外は誰もいないはずの部屋。なのにどこからか声が聞こえる。少し笑いを含んだその声の大きさからしてそう遠くないところに声の主はいるはずだ。しかし、月明かりに照らされたこの部屋には誰もいない。
冠をかぶった男は一つため息を落とすと、振り返りこう囁いた。
「お前は普通に出てくることができないのか」
からかうような冠の男の声に怒気は感じられない。どうやらいつものやり取りらしい。くすくすという笑い声が聞こえたかと思うと、いつの間にやらそこには若い男が立っていた。六尺(180cm)以上はある長身に暗い色で染められた狩衣を纏っている。その右手には水晶があしらわれた太刀。
「冥府の役所に寄ってきた帰りですので。それに普通に出てきたりしたら、私が役人に咎められるではありませんか」
「まだ悪徳政府で働いておるのか、懲りぬ奴よの。どんな理由であれ、お前のその現れ方は心の臓に悪い。改めよ」
「考えておきます」
突然現れた男は大変見目麗しい顔立ちであった。すっきりとした高い鼻に紅を引いたかのように赤い唇。道を歩くだけで異性を虜にできそうな妖しさがその目には宿っている。
男は清酒の注がれた器をひょいとつかむとそれを一気にあおる。唇の端から一筋、酒がこぼれた。器を盆の上に置くと、無造作に酒で汚れた口を拭った。顔の造作には似つかわしくない乱雑な仕草。
「品の無い飲み方だな、篁」
野蛮な飲み方を目にした冠の男は、言葉とは裏腹に大して気分を害したそぶりも見せず、もう一つの器に口を付けた。篁と呼ばれた男とは対照的に一度口を付けた後は、静かな動作で器を床に置いた。
「今日は不愉快なことがあったもので」
「お前はいつも不愉快そうな顔をしているような気もするが?」
にやにやと頬に笑みを浮かべながら冠の男は篁をからかった。冠の男はもはや若いとは形容できないほどの齢を重ねていたが、二人の男の間に流れる空気は気心の知れた親友たちのそれだった。
「貴方様とは違って、醜い下界で生きていますからね」
「お前のその性格を知れば、少しは信望者も減りそうなものだがな…。まあよい、座れ」
軽く袖を振った冠の男に篁は首を横に振った。
「今日は調査結果を聞くのと一つ文句をつけるためだけに来ただけですから」
「私の些細な楽しみを奪うつもりか」
冠の男は立場上、軽々しく友の邸を訪ねることすらできないのだろう。すっと目を細めた冠の男は篁を睨みつける。だが、篁はそれに動じることなく、淡々と言葉を重ねた。
「今日も出るかもしれませんから、用事が済み次第、夜警に戻ります」
「鬼、か」
ええ。と篁は首肯する。今の京は夜歩きするにはあまり適さない状況下にある。それは冠の男も承知していることだったため、それ以上は強くすすめることも出来なかった。自らの横に篁を座らせるのを諦めた冠の男は、篁が聞きたがっていることを教えてやることにした。
「分からない、らしい」
「大陸の武器でもないと?」
「渡来の者によれば、な。その者も不思議そうに首をひねっておったわ」
左手の人差し指で己の唇をなぞる篁。それは彼が思索にふけっている時の癖だった。
少しの時間を置いた後、目をつむった篁はゆっくりと口を開いた。
「手あたり次第やるしかないようですね」
「これと言った特徴も無いからな…。死んだ人間を見れば、そいつが犯人だと分かるが、それでは遅い。人死にが出ないようにしなければ。しかし、やりすぎるなよ、篁」
物騒な話の中でも冠の男から笑みが絶えることは無い。篁ならば遂行できると信じているからなのか。それとも、篁がどうなろうとも知ったことではないのか。
閉じられていた瞼が開き、強い意志の籠った目が現れた。篁の表情にも焦りや恐れはうかがえない。
「京の都にこれ以上か奴をのさばらせておくわけにはいきません。そろそろ片を付けます」
「ならば、篁よ。私の贈った太刀を存分にふるうがよい。そいつは古いものゆえ、お前が思いもしない力を与えてくれるだろう」
太刀、の言葉が出てきた途端、篁の顔が険しくなった。太刀の柄にめ込まれた水晶を指で軽く叩きながら、ぶっきらぼうな口調で言う。
「確かに私は貴方様に頼みました。ええ、新しい太刀が欲しいと言いましたとも。ですが、あのように目立つ行動はこれ以降控えて下さい」
「少しくらい構わんだろう。あの程度で騒いでおったら、上にはのぼれぬぞ」
「…出世欲はありませんので。では、また」
「つれない奴め。次会う時は朗報を土産にしてくれ」
冠の男は、別れの言葉を述べる篁に背を向け、桜を肴に酒を飲み始めた。冠の男の少し拗ねた様子に篁は苦笑を漏らしつつも、一礼し、闇に紛れた。
「篁よ。私はお前を信じておるぞ」
ぽつりと落とされた冠の男の声を拾う者は、誰もいない。