朱雀門
突然、式子が歩みを止めた。
「どうしたの?」
どこまでも真っ直ぐ伸びる朱雀大路。有りし日は老若男女、それこそさまざまな人が通ったであろうこの道も、存在しない今となっては歩く者など誰もいない。ここはその終着点。式子が足を止めたのにも、それなりの理由はある。もっとも、彼女が立ち止ったのはそのためだけではない。
イガキはイガキのままで、そんな式子に釣られたように足を止める。式子はイガキを見ることもなく、ただその視線はどこか遠くを眺めていた。
「ん、なんかなあ――」
高くて細い音。緩やかに、滑らかに。その調べは何か花のような芳香をまでも伴っているかのようで。もちろん、音が嗅覚を刺激することなど、あり得ないのだけれども。その音色は今まで式子が聞いたことのあるどんな音よりも真っ直ぐで、どんな音よりも柔らかい。
式子は急に不安になって、イガキを見上げた。
「イガキ、」
「笛の音だね。鬼が吹いているのかもしれない」
イガキは大きくふわっと笑う。対照的に式子の顔が強張った。
「鬼?」
「そう」
そういう伝説があるんだ。イガキは不安そうな顔でこちらを見上げる式子の頭を、大丈夫だよ、と軽く叩く。大丈夫。あれは笛を吹いているだけだよ。式子に危害を加えたりしないよ。もう耳になじんだイガキの声。体が覚えた、繋いだ手のぬくもりと、頭の上に置かれたイガキの重み。
「なんで、こんなとこで笛吹くん?」
「それはひどく難しい質問だ」
イガキが苦笑する。
「だってな、誰も聞いてくれへんのやろ? 淋しいやん」
「そうだね」
イガキの視線が空へと昇る。
「待ってるのかもね。また、わかってくれる人が現れるのを」
イガキにつられて式子も顔を上げる。眼の前に佇む丹塗りの柱に白壁の巨大な門は、これと対になる羅生門をどこか髣髴とさせた。
そのことをイガキに伝えれば、式子は頭がいいね、と褒めてくれて、式子はやっと眉を開いた。そこは二人が初めて出会った場所である。イガキが式子に名前をくれた場所でもある。遠い昔のことにも、今しがたのことにも思えた。
「どちらも境界だからね。だから、彼らは足止めをされるし、鬼も戯れるんだ」
ご覧。指差した先には羅生門と同じくらい雑多な人々。それぞれお互いのことなど、目の前の門のことなど見えていないようで、やはり好き勝手にそこここを漂っている。小さいのも大きいのも、男も女も、古いのも新しいのも、どれも同じような顔をして、同じように門弾かれていた。確かにそうだと式子がうなる。
「ここも通れへんの?」
「通れないよ。通れないこともないけど、でも」
通れないよ、もう一度イガキは繰り返した。それから一呼吸置いて、式子はどうだろうね。彼女に聞えるか聞えないかくらいの声で小さく呟いた。
式子は彼らを見ている。何を考えているのか、その表情から読み取ることはとても難しい。
「式子」
無意識のうちに自分が与えた名を呼ぶ。式子は顔を上げた。イガキはいつものイガキの顔で、それは式子の好きな顔で、だから、つられて式子も笑みをこぼす。
「ここ、抜けたらどこいくん?」
「どこに行こうか? どこに行きたい?」
イガキの言葉に式子が小首を傾げる。切りそろえられた黒い髪がサラサラ動く。どこに行きたい? と問われても、彼女の世界はここしかない。だから、それはとても難しい質問なのだろう。
「ここの外にもなんかあるん?」
「あるよ」
ちゃんと、あるよ。自分に言い聞かせるように、もう一度繰り返した。黒目がちな式子の瞳。それが真っ直ぐ自分に向けられている。一呼吸置いて、またイガキは頬を緩める。
「行こうか」
式子が頷いたのを確認してから、イガキが繋いだその手を引く。小さな冷たい手。人のぬくもりなど、少しも感じさせない手。少し力を入れれば壊れてしまいそうな手。力を込める。ぎゅっと握り返してきた。それだけで少し安心する。また、ここにいる。
「段差あるよ。気をつけて」
イガキは式子を見ず、ただ前だけを真っ直ぐに見る。式子は頷いたようだった。
門の中心を歩く。観音開きの扉が開いた。心なしか歩みは遅く。イガキの半歩遅れて式子が。門をくぐった。笛が啼いている。鬼が泣いているのかもしれなかった。イガキの体が門を抜ける。
「ここを抜けたら、どこに行こうか?」
返事はなかった。繋いだ手が、そっと、離れた。
終り。




