戻橋
ちょっと式子はここで待ってて。
そう言ってイガキはどこかに行ってしまった。一人残されてしまった式子はとりあえず何もすることがなくて、橋の縁に座って下駄をぶらぶら。
橋の上は思ったより人が多くて、さっきから上物の着物を着た首のない茶人やら、枯れた草のような色をした真新しい軍服を身に付けた兵士やらがせわしなく往来する。
婚礼前と思しき年齢の、思いつめたような顔をした女も二三いたような気がした。
といっても、その心境など式子は知るわけもないし、興味すらない。
さっきからただ通る人の数だけを数えていたのだが、どれもこれも薄ぼんやりとした存在で橋の袂で急に消えてしまうわけだから数えているうちにわけがわからなくなり、その上いい加減飽きてきて、
今度は人々に背を向けて水のない堀川のほうに足を投げ出した。そこでも足をぶらぶら。下駄が揺れる。
イガキは遅い。式子は一人頬を膨らませた。
イガキが居なくなってからそんなに長い時間がたったわけではないのだろうが、それでも一人何をするでもなく待つというのは本当に退屈だ。足をぶらぶらさせるもの正直つまらない。そろそろやめようか。
と、急に片方だけ足が軽くなった。あれ、と思う間もなく続く、コン、という軽い音。下駄が落ちたのだ、と式子が気づくまでそれから数秒の間があった。
どうしようか。少し考える。あれはイガキが、裸足じゃかわいそうだ、と買ってくれたもので、式子は着物だし、靴よりこっちのほうがいいよね、と選んでくれたものだ。
イガキが選んでくれたそれの、目に鮮やかな桜色した鼻緒を式子は酷く気に入っていた。
それならば取りに行こう、と、決断する時間は下駄が川に落ちたと認めるまでより数段早かった。
跳ねるようにして飛び降りて、橋の上に着地する。
片側だけ裸足、というのは、高さの違いもあって妙に居心地が悪い。
式子は地味な色の着物を着た女と思しき塊を突っ切って駆けだした。塊は式子にその体を通り抜けられたことなど気づいてもいないように、まだその場に漂っている。
もう一方の下駄まで無くさぬように、慎重を期して下る。橋の下は暗く、どこか湿ったような感じがした。
見渡すまでもなく、すぐに式子の目は下駄を捉えた。幸い水に浸かっておらず、彼女はほっと胸を撫で下ろす。
その下駄を足に戻して、土がついて少し汚れてしまった鼻緒を指で撫でた。ほっとすると同時にちょっと余裕も出てくる。
どうせ下に下りたのだから、もう少し探検してみようか。橋の下は上よりも暗くていろいろあって魅惑的だった。
いろいろ、というのは、橋の上から落とされたであろう玩具とか、見たことも無い細工のされた包み紙とか、小さな動物の屍骸だったりするのだけれど、それでも式子の興味を引くには十分すぎるほど十分で。
どうせ、イガキはまだ当分帰ってこないだろう。
ふと橋の真下に目を向ける。暗闇の下、お世辞にも馨しいとはいえない水の臭いが鼻を突く。
そんな空気に包まれたそこに、何人か昔風の衣装を着た童子たちがにこにこと笑っている。先程は下駄に夢中で視界に入らなかったのだろう。
式子はおもむろにそちらへと向かった。イガキが帰ってくるまでこの子達と遊んでいようか。
こんな小奇麗な身なりをしているし、なによりこんなところを隠れ家としているのだ。きっと京のことなど沢山知っているに違いない。
そう思えば橋の下の、光の遮られた空間はこちらから見えないところにとんでもない宝なんかがあるかもしれないなんて思えてくる。
「なにしてはんのん?」
一番近くにいる錆色の衣を着た童子に話しかける。童子はただ愛らしい笑顔を式子に向けるだけ。答えてはくれない。
「名前、なんて言うん?」
知らない人に会ったらまず挨拶しなさい。その後に名前を聞くんだよ、とイガキに言われたからその通りにしてみたのに、童子はやっぱり笑っているだけでなにも答えてはくれなかった。
童子が式子に背を向けた。そして振り返る。
まるでついておいでというかのように。綺麗な黒い長い髪を後ろで一つにまとめている。
みんなおんなじ髪型で、寸分違わず。ただ服の色だけが違う。着ているものは男物のように見えるが、髪型のせいか彼らは男児にも女児にも見える。
一歩踏み出しかけて、すぐに式子は立ち止まる。薄暗くてなにか気味が悪い。さっきまではすごく魅力的な空間に思えたのに。
「イガキ待ってんねん。そっち行ったらわからんくなる」
一歩後退さった。橋の向こう側が見えない。それほど広い橋だっただろうかこの橋は。いや。こんな袋小路な橋の下、なんてあるわけない。向こう側の見えないくらい幅広い橋なんて、あるわけがない。
式子の顔が強張った。
童子は尚笑みを浮かべたままで。気がつけば他の子供もこっちを向いて、十二人全員のその顔にはお人形さんみたいな笑みを貼り付けていた。
怖い。式子はもう一歩後退さる。それと同時に童子たちは一歩だけ、式子に近づいた。
「こっち来んといて」
走り出したい。こっから走って逃げたい。イガキのところに戻りたい。そう思っているのに、式子の足は根を張ってしまったかのように動いてくれない。童子が近づいてくる。一歩。もう一歩。怖い。逃げたい。助けて――。
「――式子」
声が聞えた。
イガキの声だ。
その声が合図であったかのように式子は脱兎の如く跳ねとんだ。土手を這い上がる。
後ろなど振り返る余裕はない。もし振り返ったらもうイガキのところには戻れない。そんな気がした。
やっとのことで橋の上に戻り、乱れた息を整える。桜色の鼻緒の、イガキが買ってくれた下駄はどこかにいってしまったらしく裸足の足はどろどろに汚れていた。
「式子」
イガキの声が頭の上から降ってきた。ほっとした気持ちと、怒られる恐怖とが混ざり合って、それでもそっと伺うように顔を上げる。イガキになんていえばいいんだろうか。せっかく買ってもらった下駄だったのに――。
「おかえり」
イガキはイガキの顔をしていて、それは全然怒っている顔ではなくて。拍子抜け。
「行こうか」
いつものようにその大きくてゴツゴツした、筋張った手を差し出した。式子はその手を握る。暖かい手。するととたんに気持ちが落ち着いて、さっきまでのが嘘だったかのように安らぐのだ。
「イガキ、あのな、」
「式子、あの子達を怖がっちゃいけないよ」
「なんで?」
知ってたん? 聞いてみた。でもイガキはそれに答えることはなく。
「晴明さんがいなくなってしまって、でも、どこかへ行っていいとも言われてなくて、それにもう誰もそう言ってくれる人もいなくて、それでもずっと晴明さんにそういわれるのを、呼ばれるのをあの場所で待ってて」
だから、あの子達も淋しいんだよ。歩きながら、ゆっくり諭すような、ひとりごちているような、そんな口調でそう言った。
式子はもちろんハルアキさんなんか知らなくて、さっきのことを思い出せばまた震えが起きそうだったけれど、それでもイガキがそういうのならそういう風に思おうと、一人静かに納得しようとした。
「この橋は行くためじゃなく、戻ってくるためにある橋だからね」
だからみんな、あの子たちのようにずっとここで戻ってくるのを待ってたり、戻ってきてしまったりするんだ。
穏やかな口調でそういうイガキの、言葉の意味はわからなかったけれどそれでもそういうものなのだと、そう思った。
西日が二人の背中を照らして、小さいのと大きいの、二つの影が並んで伸びた。




