羅生門
朱雀大路の真ん中を、ゆっくり歩いて、立ち止まってそっと見上げる。
それは、別に自分の意思で立ち止まったわけではなく。まるで見えない何者かがそこに立ちふさがっていて、急にとうせんぼうをされたように感じられた。だから、視線は空を仰ぐ。
大きな門があった。丹塗りの豪奢な造。視線のずっと先では翡翠の屋根が見降ろしている。鮮やかな色が、星一つない薄暗い空に映える。酷く高い。強く風が吹けば倒れてしまいそうなほどに。低い空に突き刺さっているのでないかと心配になる位に。
こんな場所にこんなものがあったかしらと首を傾げ、いや、例え元々あったとしても門は通るためにあるのだから、通れないはずはないともう一度挑戦してみて、それでも通れないものだから彼女はもう一度小さく首を傾げた。
「目を凝らして見て見るといい」
突然背後から声が聞えた。若い男の声だ。言われたとおりに目を凝らしてみれば、なるほど、そこにはおびただしい数の人がいる。
この門を境に向かい合うような形になっているのもいれば、その存在など知らないように勝手気ままにうろつくものもいて、それは大きいのもいれば小さいのも、それこそさまざまなものがそこここをを闊歩している。
「なんであの人たち――」
言いかけて、言葉に詰まる。それらは確かに人の形をしている。でも、その存在は全て茫洋として頼りなく、目を凝らせば凝らすほどその輪郭は散じてしまうのだ。距離があるわけでもなく、ほんの目と鼻の先にいるはずなのに。
確かに人の形をしている。でも、それは、ただ形をしている、それ以上のものではなかった。じっと見回して、ふと気が付く。あちら側にもこちら側にも、ぼんやりとした人たちは沢山いて、それなのにその顔ぶれは全く変わらないまま。勿論顔なんかが判別できるほどはっきりした存在ではなから、正確にはわからないのだけれど、もしかしたら――。
「通れへんの?」
いつの間にか横に立っていた声の主におそるおそる問うてみる。
「通れないよ。ずっとここで足止めされ続けるんだ」
男はちょっと笑ったみたいだった。声は高くもなく、低くもなく、穏やかなようで、静かなようで、気持ちが落ち着くようで、昂揚するようで。
耳に吸いつくようで、通り過ぎていくようで、門の周囲を逍遥する人たちのように、どこか掴みどころがない。
「誰も通れへんのやったら、ここに門がある意味ないんちゃう?」
続けて問う。男は答えることなく、ただ黙ったまますっと歩き出した。彼女が踏み出せなかった一歩を軽々と越え、茫洋とした人たちに構うことなくそのまま通り抜けて向こう側へ。
彼らはその男に自身の体をすり抜けられたことなど気にしていないのか、それとも気づいてすらいないのか。相も変わらずぼんやりとした輪郭で、門の向こう側で頼りなく漂っていた。
「通れないこともないんだ。こんな風にね」
振り返って、破顔して、それから彼はまた少女の横までゆっくりと戻ってきて、男は自分を見上げる彼女の視線に柔らかな笑みで答えた。彼女はただ男を見上げている。
「羅生門は境界だからね」
「らいせいもん?」
「そう。この門のこと」
知らないの? 男が重ねた。そんなことを言われても、彼女はこんな所までくるのでは初めてで、だから小さく首を傾げた。
それはさらに説明を求めてのものだったのだが、男はもうそれに対してはなにを言うつもりもないらしく、そのまま視線を少女と同じ高さまで揃えた後、
「ところで、君の名前は?」
「……」
彼女は答えなかった。ただもう一度小さく首をかしげるだけで。
「ないの?」
「知らへん」
ないのではなく知らないのだと、彼女はもう一度強調した。
「なら、付けてあげようか」
ないと呼ぶときに不便ではないか、と男は続けた。
「式子、というのはどうだろう?」
「しきし?」
気に入らないか、と男は問うてきた。気に入らないもなにも、自分は名前のことなどなにも知らないし、困ったこともないのだ、と彼女が答えれば男はそれはそれで満足げに笑うのだった。
とりあえず、いくところがないなら一緒に行こうか。男が言った。
式子はもちろん断る理由なんか何にもなくて、男が差し出してきた手を取ってそのまま手を引かれるまま元来た道を引き返す。
男の手は酷く暖かくて、自分でも気付かないうちに冷えてしまっていたのだと、彼女はそう思った。
それから今はそんなに冷える季節だったかしらとちょっと考えたあと、それでも思い出せそうになかったのでついに考える事を放棄した。今はこの男についていけばいいのだ。
朱雀大路を二人で歩く。途中で一回振り返った。
丹塗りの高い高い門はもうそこにはなく、もちろん、茫洋とした人たちも門と一緒にどこかへ行ってしまっていた。そこにはもともと、なにもないようだった。
後にはただ、落ちてきそうに低い空が広がっていた。




