神童と豪農
昭和初期。
幼くして“神童”と呼ばれた佐野正道は、村に根づく悪習――
家柄によって才能が踏み潰される理不尽を正すため、
旧制中学校で原田武を「番長」として据え、
貧しき者が力を持てる秩序を築き上げた。
だが、その変革は豪農・中島昭の憎悪を呼ぶ。
「貧乏人に学力で負けた」と親に罵られ続けた中島は、
原田への報復として十数人を差し向け、重傷を負わせたのであった。
才能は村を変え、恐怖は男を井戸へと落とした
佐野正道は、幼い頃より「神童」と称えられた。
その才は、やがて組織を統べる冷徹な手腕となって現れた。昭和初期、旧制中学校の薄暗い校舎で、彼は原田武を「番長」として据えた。
貧富の格差がもたらす悪習――家柄によって才能ある者が踏み潰される慣習を、根こそぎ排除するためだった。
村の未来は、真に優れた者が花開くことにこそある。そう信じ、彼は動いた。
原田は主の理想のため、時に正義の執行者となり、時に忌み嫌われる影となった。貧しさゆえに才能を埋もれさせる時代は、終わったかに見えた。
だが、ある雨の夜、原田は町外れの藪で十人余りに囲まれ、骨を折る重傷を負った。黒幕はすぐにわかった。豪農・中島昭である。
中島は親から「貧乏人に学力で負けた」と罵られた。
原田の仕切りによって為された貧乏人の台頭が許せず、彼に報復したのだ。
表向き、佐野と原田は犬猿の仲を装っていた。その偽装が、今、仇となった。
相手は村の経済を牛耳る豪農。迂闊に手を出せば、村そのものが傾く。そこで佐野は、呪いという名の罠を仕掛けた。
自家の敷地にある古井戸の周囲に、一羽のカラスを吊るした。
「十羽になったとき、呪いは成就する。今回の発端となった者が死ぬ。どうやら、俺が黒幕とみた誰かが、家の敷地に仕掛けたらしい」
中島は古来の呪術書を好んで読み漁る男だった。佐野はそれを逆手に取った。
「手を引けば、呪いは解ける」と繰り返し告げ、解決策を示したが、中島の恐怖は日毎に膨れ上がった。
毎朝増える黒い死の使者。井戸の縁に並ぶ濡れた羽根と、虚ろな目。深夜、中島は佐野の屋敷に忍び込んだ。カラスをすべて始末し、呪いを破ろうとした。
暗闇の中で足を滑らせ、古井戸の底へと落ちた。骨の砕ける音と、水音だけが残った。佐野は気づいていた。
物音を聞きつけ、灯りを掲げて井戸を覗き込んだとき、底にうずくまる影を見た。だが、彼は誰にも告げなかった。
村の均衡を守るため、ただ沈黙した――
あれから、ほぼ八十年。老いた佐野正道は、病床で最後の言葉を紡いだ。
「…あれから、ずっと井戸の底で、ひとりだったろうな。中島よ。かわいそうに」
皺だらけの唇が、微かに笑った。
「わしがつれていく。葬儀のとき、一緒に供養してくれ。井戸の蓋を開け、わしの棺をその傍らに…。あいつも、ようやく地上に出られる」
爺さんはそう言い終えると、ゆっくりと目を閉じた。
その夜、村の古井戸のあたりで、十羽のカラスが一斉に羽ばたいたという。
井戸の底から、かすかな水音と、誰かの安堵したような吐息が、風に乗って聞こえたと、村の古老は今も囁く。
以来、佐野家の井戸は決して塞がれなかった。
時折、夜更けに井戸の縁に近づくと、底から二つの視線が絡みつくように見上げてくるのだと。
一人は、かつて村を支配した神童。
もう一人は、呪いを信じた豪農。
二人は今も、暗い水の中で永遠に語り合っているという。
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