第8話 いなくなる可能性
夜更けの執務室には、灯りが一つだけ残っていた。
ガイウスは机に肘をつき、書類を前にしながらも、文字を追っていなかった。視線は紙の上に落ちているのに、頭の中は別のところを巡っている。
――王都からの連絡。
正式な文面ではない。
だが、内容ははっきりしていた。
「戻ってほしい」
それだけだ。
理由も、条件も、細かい話はまだない。
だが、分かってしまう。
これは、始まりだ。
扉が軽く叩かれた。
「入りますよ」
エリアナの声だった。
「どうぞ」
彼女は、いつも通り静かな足取りで入ってくる。机の上に視線を走らせ、書類の山を見て、ほんの少し眉を下げた。
「遅いですね」
「いつものことだ」
「無理は、効率を下げます」
「……耳が痛い」
軽いやり取り。
それだけなのに、ガイウスは胸の奥がざわつくのを感じていた。
「王都から、連絡が来ました」
彼女が先に切り出した。
「ああ」
「戻るように、と」
「条件は?」
「まだです」
エリアナは、特に感情を込めずに言った。
それが逆に、現実味を帯びさせる。
「……戻るのか」
問いは短かった。
エリアナは、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置き、窓の外を見る。
夜の街。
灯りは増え、通りには人の気配がある。
「考えます」
それだけだった。
ガイウスは、それ以上踏み込めなかった。
――引き留める資格が、自分にあるのか。
彼女は、この街の人間ではない。
雇われでも、属しているわけでもない。
彼女がいなくなっても、責める理由はどこにもない。
だが。
「……いなくなると、困る」
言葉が、思わず零れた。
エリアナが、静かにこちらを見る。
「代官としてですか?」
「それもある」
正直だった。
「それ以外は?」
問いは、柔らかい。
だが、逃げ道はなかった。
「……分からない」
ガイウスは、正直に言った。
「ただ、今の街は――」
言葉を探す。
「お前がいない前提で、まだ動けていない」
それは、弱音だった。
エリアナは、少しだけ目を伏せる。
「それは、良くない状態ですね」
「分かっている」
「私がいるから回る、は……危険です」
「だからだ」
ガイウスは、顔を上げた。
「だから、俺は……」
続きが、出てこない。
引き留めたい。
だが、縛りたくない。
エリアナは、彼の沈黙を責めなかった。
「街は、育っています」
静かな声だった。
「ロルフも、商人たちも、判断できるようになってきた」
「それでも」
「それでも、です」
彼女は、微かに笑った。
「人は、完全には切り離せません」
ガイウスは、その言葉を噛みしめた。
「……俺は」
深く息を吸う。
「お前がいなくなっても、街を回す」
エリアナの目が、わずかに見開かれた。
「それが、代官としての責任だ」
「……はい」
「だが」
ガイウスは、言葉を選びながら続けた。
「それでも、ここにいてほしいと思う気持ちは、否定しない」
告白ではない。
恋の言葉でもない。
だが、嘘ではなかった。
エリアナは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……困りますね」
「悪い」
「いえ」
彼女は首を振った。
「正直で、助かります」
立ち上がり、扉へ向かう。
「返事は、もう少し待ってください」
「分かった」
扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。
「ガイウスさん」
「なんだ」
「この街は……」
一瞬、言葉を探してから。
「私がいなくても、大丈夫です」
そう言って、出ていった。
残されたガイウスは、椅子にもたれ、天井を仰いだ。
――大丈夫だと言われて、安心するほど、冷静ではない。
だが、理解はした。
彼女は、選ばせようとしている。
自分にも、街にも。
「……厄介な女だ」
呟きながら、口元がわずかに緩む。
王妃にはなれなかった女が、
今、自分に「覚悟」を要求している。
それが、なぜか悪くなかった。




