第4話 不満は、正しい顔をしてやってくる
街が、ほんのわずかに動き始めた。
それは誰の目にも明らかな変化ではない。だが、毎日をここで生きている者には分かる程度の違いだった。
市場に並ぶ品が増えた。
兵士の顔色が少し良くなった。
食糧配給の時間が、一定になった。
――それだけのことだ。
だが、それだけのことが、必ずしも歓迎されるとは限らない。
「代官殿!」
執務室の扉が、乱暴に開かれた。
入ってきたのは、兵士長のロルフだった。四十代半ば、戦場をいくつも越えてきた男で、街では一目置かれている存在だ。
「どうした」
ガイウスが立ち上がるより先に、ロルフは机を叩いた。
「兵の配給を減らしたのは、あの女か」
視線が、エリアナに向く。
彼女は驚かなかった。むしろ、来るべきものが来たという感覚だった。
「戦時基準のままでしたので、平時用に戻しました」
「戻した、だと?」
「前線はありません。警備は必要ですが、備蓄を消費し続ける理由はないかと」
理屈としては、正しい。
だが、ロルフの表情は険しい。
「兵の士気を下げる気か」
「士気は、量ではなく安定です」
その返答に、ロルフは一瞬言葉を失った。
「……机上の空論だ」
「そうでしょうか」
エリアナは、静かに言葉を重ねた。
「昨日、配給が遅れませんでした。今日も、明日も同じです。それは、士気に影響しませんか?」
ロルフは唇を噛んだ。
そのとき、もう一人、執務室に入ってくる者がいた。
「税の徴収時期をずらしたそうですね」
街の有力商人、バルドだった。柔らかな口調だが、目は笑っていない。
「はい」
「困りますな。我々は予定を立てて動いている」
「農民も同じです」
「だが、こちらは納期がある」
もっともらしい言い分だ。
不満はいつも、正しい顔をしてやってくる。
ガイウスが口を開こうとした瞬間、エリアナが一歩前に出た。
「お二人とも、間違ったことは言っていません」
二人が同時に眉をひそめる。
「ただ、優先順位が違うだけです」
エリアナは机の上に、一枚の紙を置いた。
「これが、今月の収支予測です」
数字は多くない。だが、必要なものはすべて書かれている。
「兵の配給を見直し、徴税時期を調整した結果、街全体の流通量は増えています。商人の取引機会も、結果的には増える」
「結果論だ」
「いえ、傾向です」
ロルフは腕を組み、低く唸った。
「……あんた、敵を作るやり方だな」
「承知しています」
エリアナは即答した。
「でも、誰かが嫌われないと、街は動きません」
その言葉に、室内が静まり返る。
ガイウスは、そこで初めてはっきりと口を挟んだ。
「決めたのは、俺だ」
短く、強い声だった。
「彼女は提案しただけだ。責任は、俺が取る」
ロルフはしばらくガイウスを睨みつけ、やがて視線を逸らした。
「……分かった。だが、何かあれば、真っ先に言わせてもらう」
「当然だ」
二人が出ていくと、執務室には沈黙が残った。
「……悪かったな」
ガイウスが、ぽつりと言う。
「いいえ」
エリアナは首を振った。
「反発が出ない方が、不自然です」
「それでも、あいつらは――」
「正しいことを言っています」
ガイウスは驚いたように彼女を見た。
「だからこそ、厄介なんです」
正しさと正しさは、簡単には噛み合わない。
その日の夕方、エリアナは街を歩いた。
市場の隅で、ミーナが声をかけてくる。
「お姉さん、今日は怒られた?」
「どうして分かるの?」
「大人はね、声が大きくなるから」
エリアナは小さく笑った。
「でも、ごはんは?」
「ちゃんと来た!」
それでいい、と彼女は思った。
夜、執務室で灯りを落とす前、ガイウスが言った。
「お前、怖くないのか」
「何がですか」
「嫌われることだ」
エリアナは、少しだけ考えた。
「王宮では、嫌われないようにしていました」
「結果は?」
「……切られました」
ガイウスは、短く息を吐いた。
「ここは、私が決める場所ではありません」
いつもの言葉。
だが、今日も続きがあった。
「でも、壊れるのを見過ごすつもりはありません」
ガイウスは、その目を見て、初めてはっきりと理解した。
この女は、支配しに来たのではない。
街が生き残るために、嫌われる役を引き受けに来たのだ。
王妃にはなれなかった。
だが、ここで必要なのは、王妃ではない。
それだけは、もう疑いようがなかった。




