第29話 それでも、残る
夜は、静かだった。
執務室の灯りは落ちている。
それでも、ガイウスは一人、机に向かっていた。
書類はもう片付いている。
確認も、指示も終わった。
それでも席を立たないのは、仕事が残っているからではない。
――考える時間が、必要だった。
扉が、控えめに叩かれる。
「……入れ」
エリアナが顔を出した。手には、薄い記録帳だけ。
「お邪魔でしたか」
「いや」
ガイウスは首を振る。
「座れ」
エリアナは、対面ではなく、少し横に置かれた椅子に腰を下ろした。正面で向き合う必要はない。今日の話題には、それが合っている。
「……今日の判断」
ガイウスが口を開く。
「呼ばなかった」
「はい」
「不満は?」
「ありません」
即答だった。
ガイウスは、小さく息を吐く。
「俺はな」
言葉を探すように、少し間を置く。
「正直、誇らしかった」
エリアナは、何も言わない。
「君が来た頃は、何一つ決められなかった街だ」
「はい」
「今は、違う」
彼は、机の端に指を置いた。
「判断が、ここに残っている」
“ここ”とは、街のことだ。
「……それでも」
ガイウスの声が、少しだけ低くなる。
「君がいなくても回る、と分かって」
視線が、窓の外に向く。
「少し、寂しい」
エリアナは、静かに息を吸った。
「それは……」
言いかけて、言葉を選び直す。
「正常だと思います」
ガイウスは、苦笑した。
「君も、そう言うか」
「はい」
短い沈黙。
否定もしない。
慰めもしない。
「……引き留めないのか」
ふと、ガイウスが言った。
エリアナは、すぐには答えなかった。
「引き留めてほしいと、言いましたか」
「言ってない」
「でしたら、引き留めません」
ガイウスは、しばらく黙ってから、ゆっくり頷いた。
「そうだな」
それでいい。
無理に言葉を足せば、関係は歪む。
「……ただ」
彼は、続けた。
「いてほしい、とは言わない」
エリアナは、視線を上げた。
「だが」
一拍置いて。
「戻る場所がある、とは言う」
それは、約束ではない。
束縛でもない。
ただの、事実の共有だ。
「ありがとうございます」
エリアナは、静かに言った。
「それで、十分です」
ガイウスは、立ち上がり、窓を開けた。
夜風が、部屋に流れ込む。
「……この街は」
彼は、外を見たまま言う。
「君のものではない」
「はい」
「だが」
「私の仕事が、残っている場所です」
ガイウスは、振り返らずに笑った。
「相変わらずだな」
「変わってしまったら、困ります」
短い会話。
だが、そこに曖昧さはない。
エリアナは、席を立った。
「失礼します」
「ああ」
扉の前で、彼女は一度だけ足を止める。
「……ガイウス」
「なんだ」
「この街は、大丈夫です」
それだけ言って、出ていった。
ガイウスは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
引き留めなかった。
だが、手放したわけでもない。
それが、今の距離だ。
机に戻り、記録帳を閉じる。
――彼女は、もう“必要な人”ではない。
だが。
――それでも、残る。
仕事が。
言葉が。
関係が。
窓の外で、街の灯りが静かに揺れている。
今夜も、誰かが判断し、誰かが支え、街は回っている。
それでいい。
ガイウスは灯りを落とし、部屋を出た。
廊下には、もう足音はない。
だが、不思議と空虚ではなかった。
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