第11話 どこで、生きるのか
夜更けの執務室は、静まり返っていた。
机の上には二つの書類が並んでいる。
一つは、王都からの正式要請書。
もう一つは、リュネアの今週分の報告書。
エリアナは、そのどちらにもすぐには手を伸ばさなかった。
灯りの下で、椅子に深く腰掛け、ただ呼吸を整える。
――考える時間は、もう十分に取ったはずだ。
それでも、答えは簡単に形にならない。
王都に戻れば、仕事は明確だ。
制度も、人材も、権限も揃っている。
調整役として、これ以上ない環境だろう。
評価も、ある。
名も、立場も、保証されている。
それは、悪い選択ではない。
エリアナは、そっと目を閉じた。
王宮の廊下。
会議室。
整えられた資料と、滞りなく進む議題。
誰も困らない。
誰も感謝しない。
それが、仕事の完成形だと、彼女は知っている。
――私は、間違っていなかった。
王妃には向いていなかった。
それも、事実だ。
だが、あの場所で彼女がしていたことは、確かに意味があった。
問題は、それを続けたいかどうかだ。
ふと、昼間の街の光景が脳裏をよぎる。
市場で声をかけられたこと。
ミーナが予定を話してくれたこと。
兵士たちの足取りが軽くなっていたこと。
誰も、彼女を称えなかった。
誰も、特別扱いしなかった。
それでも――。
「……ここでは、仕事が“顔”を持つ」
小さく、呟く。
王都では、成果は常に遠かった。
制度の向こう側にあり、数字の奥に隠れていた。
ここでは違う。
整えた結果が、その日の生活になる。
明日の予定になる。
それは、効率の面では劣る。
感情の面では、重い。
「私は……」
エリアナは、ゆっくりと息を吐いた。
王都で働けば、私は優秀な補佐官でいられる。
ここで働けば、私は――ただの一人の人間だ。
評価される場所。
意味を感じられる場所。
どちらも、間違いではない。
だが。
机の端に置かれた、リュネアの報告書。
その一番下に、走り書きで付け足された一文があった。
――「次週より、巡回担当を一部交代。判断は現場に委ねる」
ロルフの筆跡だ。
エリアナは、それを見つめたまま、しばらく動かなかった。
自分がいなくても、判断が行われている。
それは、理想的な状態だ。
そして――。
「それでも、私はここにいる」
そう、自然に思えた。
それが、答えだった。
扉がノックされる。
「入っていいか」
ガイウスの声。
「どうぞ」
彼は中に入り、書類を見て、何も聞かずに向かいの椅子に座った。
「……考えはまとまったか」
「はい」
エリアナは、王都の書簡に手を伸ばし、軽く触れる。
「王都に戻れば、私は正しく働けます」
「そうだな」
「でも、ここでは」
一瞬、言葉を探してから続けた。
「仕事が、私を必要としなくなる瞬間を、見届けられます」
ガイウスは、黙って聞いていた。
「それが、私にとって一番大切だと分かりました」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「……返事は?」
「明日、出します」
ガイウスは、それ以上何も言わなかった。
立ち上がり、扉へ向かう。
その背に、エリアナは声をかけた。
「ガイウスさん」
「なんだ」
「もし、私がここを離れても」
一瞬の間。
「……あなたなら、この街を回せます」
彼は振り返らずに答えた。
「それでも、離れないんだろう」
エリアナは、小さく笑った。
「ええ」
扉が閉まる。
執務室には、再び静けさが戻った。
王妃にはなれなかった。
だが、それはもう、敗北ではない。
ここで生きることを選ぶ。
それが、私の仕事であり、人生だ。
エリアナは、王都への返書を取った。
あとは、伝えるだけだ。




