赤毛の梳く音
ある死刑囚の男に愛する妻がいた。
男は王の前に引き出され、命乞いをした。
「王よ。私と妻はお互いに愛し合っており、お互いがお互いの幸せのために不可欠であります。
どうか無関係な妻まで不幸に貶めるのはお許しください。
私自身はいかなる罰でも謹んでお受けいたします!どうか、どうか命だけはお許しください。私の妻に、寛大なる御慈悲を」
そこには悪辣な王の、民に自らの慈悲を見せたいという思惑もあっただろう。
死刑囚は死に代わる刑罰として毎日拷問に処されることになり、妻との時間を許された。
はじめの拷問のあと、男は約束通り妻と家に帰された。
「あなた!本当に、良かった……」
妻は夫を見るなり薄く笑みを浮かべて駆け寄った。
「もうだめかと何回も思ったわ!待っててよかった」
夫は駆け寄ってきた妻に求められるままぎこちなく口づけを交わし、静かに囁いた。
「ああ。本当に良かった。君を1人になんてとても考えられないよ」
しかし、妻は気づいた。
(どうして髪を撫でてくれないのでしょう?)
夫は妻の髪をなでるのを好んでいた。
夕日をシルクに閉じ込めたようだといつも褒めていたのだ。
妻もいつも頬を紅くして、その言葉を聞いていた。
「ねえ、あなた。今日は髪をほめてはくれないの?あなたを待ってる間も、私お手入れを欠かさなかったのよ?」
瞳を揺らし、妻は夫を見つめた。
しかし、夫はその目をみてくれなかった。
「そうだね、アイラ。今日も綺麗だよ。まるで夕焼けみたいだ」
髪だけを目に入れるようにして、夫は答えた。
「それならどうして撫でてくれないの?」
夫の手を取り、自分の頭に導こうとして、手が止まった。
いつも安心をくれた逞しい手が、見る影もなくその輪郭を失っていた。
夫はされるがままにすることしかできず、触れられてしまった痛みに顔をゆがめた。
「そんな…」
妻はよろよろと後退り、そのまましゃがみこんでしまった。
夫は思わず手を伸ばしかけ、そのひしゃげた手を再度目の当たりにした妻が泣きそうになったことで、止めた。
「ごめん…ごめんな…」
夫は謝るしかできなかった。
そんな夫を妻は抱きしめた。
抱きしめることしかできず、一筋だけ、涙がこぼれ落ちた。
2日目も罰は続いた。
送り出す妻は相変わらず震えていた。
それでも夫の前に立ちはっきりと告げた。
「あなた。きちんと待っているから、必ず帰ってきて」それでもその目には力があった。
それに夫も答えた。
「わかった。必ず帰ってくる」
午前中を過ぎた頃、夫の目からは生気が失われていた。
そして問われた。
「死を受け入れるか?」
夫はしばし沈黙し何度か口を開いたり閉じたりしながらやっと答えた。
「……私は、妻のために、死ぬわけにはいきません」
夫は罰を受け、夜には帰ってきた。
妻は戻ってきた夫に抱きつこうとして躊躇しつつ、話しかけた。
「あなた、おかえりなさい」
対して夫は顔を伏せたまま何も答えなかった。
「あなた…?」
妻は夫の様子をよく観察した。
昨日と違って目立った傷が増えていることはなかった。
それなのに何も応えてくれなかった。
「あなた?大丈夫なの?どうか返事をして」
声をかけ、初めて夫が顔を上げた。
しかし、曖昧な笑みを浮かべるのみ。
「どうして何も話してくれないの?また何かされたの?」
夫は何も答えてくれない。
何かを訴えるように唇は動くのに、声が出ていない。
妻は焦りながら、それでも必死に言い紡ぐ。
「……ちゃんと帰ってきてくれたんですものね。大丈夫よね」
三日目、帰ってきた夫は妻に対して笑みを見せることができなかった。
それでも、手をつぶされ、声を奪われた昨日までよりは妻にとってマシだと思えた。
「今日も帰ってきてくれてありがとう。愛してるわ」
薄い笑みを浮かべて妻は言った。
夫はその言葉にも無反応だった。
妻には胸に何かが刺さったような気がした。
幸い、夫婦は筆談という方法でまだコミュニケーションをとることができた。
「ねえあなた。今でも私のことを愛してくれる?」
(もちろんだ。愛しているよ。……)
夫は頭を抱えて苦悶の表情を浮かべた。
必死に何かを思い出そうとしているようだった。
妻は思い切って聞いてみた。
「どうしたの?何か気になる?」
夫は目を伏せ、罪悪感をこらえるように問うた。
(君は、何という名前だったかな……?)
妻は目を見開き、胸を押さえ、必死に吐き気をこらえるようだった。
結局その日、妻はそれ以上言葉を話す事が出来ず、2人の間を沈黙が支配した。
四日目、夫はいつもと同じ場所で責め苦を受けていた。
死ねば楽になる。
最悪な思考が流れた。
しかし夫は妻のため、いつもどおりの答えを出した。
「ありがとう、愛しているわ」
少し影のある表情だったが、妻もいつもの言葉で出迎えてくれた。
夫は今日もやるべきことをやれたと満足した。
ただ、昨日聞けなかった名前を聞こうとしたのに、妻の顔を見ることができなかった。
「明日も帰ってきてね」
顔の見えない妻からの言葉はどこか呪いのようだった。
それからも拷問は続いた。
「おかえりなさい」
今日も夫が帰ってきた。
妻は思わず今日は何が欠けてしまっているのか探してしまう。
浅くなる呼吸を意識的に整えた。
夫は、目を閉じていた。
その閉じた目の下がどうなっているか、妻に確かめる勇気はなかった。
「あなた、分かる?私よ」
夫は頷くだけで笑顔も見せなかった。
以前のような覇気ある姿は久しく見ることができていなかった。
「私のためにいつもいつも本当にごめんなさい。こんなにも苦しんで……」
夫を抱きしめようと近づき、妻は躓いて転んでしまった。
大した転び方ではなかったが、以前なら伸びてきた手が伸びてこない。
照れた笑みを浮かべて、その手を取り、そこに帰ってきたはずの優しい笑顔がない。
そして、今日からは、あんなに褒めてくれた赤毛を、もう見てもらえない。
何一つ分かち合えない現状を夫婦と呼べるのかと夫を叩いた。
叩いて叩いても、痛くなるばかりだった。
「あなたは、幸せなの?」
夫背後には、王の紋章が刻印された槍と盾が並び、無言で光っていた。
最低な運命への抵抗として、その日は夫に愛を囁かなかった。
次の日連れて行かれる夫が一度だけ振り返って言った。
「愛しているよ、……アイラ」
それ以降夫が帰ってくることはなかった。
あの人が楽になれたならばそれで。
赤毛を梳こうとして、引っかかってやめた。
そうして妻は最期の息を吐いた。




