1 妹
七日間降り続いている重い雨は容赦なく私に絶望を注ぎ、私が流す涙すら封殺しようとしている。
このまま雨に打たれて死ねたらどんなにいいだろう。頭や肩に叩きつける雨粒が銃弾に変わり、自分の身に起きた事を理解する間もなく一瞬で身体が崩潰して天に召される。その方が気持ちよく死ねるのではないか――そんな妄想すらしてしまう。
私にはもう何も無い。
なにもなくなってしまった。
水没し、港のように変わり果てた高台の公園から眺めるのは雄大な雨の海。
灰青色の煙雨が充満する海の彼方、天に向かって餓鬼が腕を伸ばすように歪な形で咲く、塔のように巨大化した一輪の黒い花が在った。
雨季の長期化と変異した黒い花が、この小国に生きる人間を淘汰しようとしている。
いまから語るのは、退廃のお話。
そして大半が既に起きてしまった取り返しのつかない過去のお話であり、ただの私の思い出話になってしまう。
なぜなら私はいま、死を待つだけの存在だから。
ううん、それも正しくない。自決用の道具は持っているのだけれど、決心がつきかねているだけの存在だから。
だから。
あなたに希望があるのなら、是非引き返してあなたの人生を歩んでほしい。
私に同調する必要はない。
噎せ返るような高湿度の中、雨の止む兆しを探るべく天を見上げると、雨粒が次々と眼に突き刺さった。
けれどもこんな痛みは知れている。
決して冷たくなく寧ろ心地よい温度の雨は人肌に近く、甘やかな死の抱擁を浴びながら、私はこの長雨に思いを馳せた。
人間が真の平等を求めるならば、それは人間を超越したものからしかもたらされない。そしてそれは決して神ではない。
神など人間の妄想に過ぎない。神の教えなどを説いてもそれは今を生きる我々が救われたいがため、もしくは権力者が民衆を管理するために都合よく解釈して作った後付けの説教だ――などと言えば、神への冒涜だとして過激な信徒にぶっ殺されるだろうか。……いや、誰しも信条は自由だ。己の信条を他者に強制する事こそが暴力であり悪であると私は思う。
そして私は、その超越した存在を天候だと捉えている。
賢者も愚者も等しく洗い流すこの長雨こそが私たちに真の平等を与える。そうでしょう?
と、頭上に渦巻く黒雲に問いかけるもそこに意志はなく、ただただ虚しいだけ。
私は手元に視線を落とした。
私の腕の中には妹の亡骸が在る。三つ下の妹、紗菜は、十六歳で自ら命を絶ってしまった。
此処は家から徒歩五分ほどの距離にある廃工場の敷地の片隅、近隣住民からの悪印象を緩和するために造られた、鉄製のベンチと水飲み場だけが在るちょっとした公園で、私が紗菜を発見した時、彼女はベンチの上に左腕を投げ出し、自らは地べたに座り込んでぐったりとしていた。仮に晴天だったならば、ベンチに突っ伏してだらしなく居眠りをしているのではないか、などと思えるような体勢だったが、その左手首は切断され、断面からは夥しい量の血液が雨と共に流れ出し、ベンチの下に真っ赤な渦を描いていた。力無く垂れた右手の傍には、かつて父が愛用していた片手で扱える多機能斧が転がっている。
その光景を見た時、私は足に根が生えたように動けなかった。
声も出せないまましばらく立ち尽くし、やがて脳からの指令が遅れに遅れて足に到達し、重い足をなんとか使役して紗菜の元へ辿り着いた。そしてすぐ傍に両膝をつき、肩から覆い被さるようにして強く抱き締めた。雨泥に汚れ、血液に塗れるのも厭わず、肋骨が折れても構わないと思ったほどに。けれど紗菜の身体は既に土嚢のように重く、動かなかった。
私は、雨を含んで重くなった紗菜の後ろ髪に顔を埋め、胃まで吐き出しそうなくらいに嗚咽した。いままで押しとどめていた不安や後悔や緊張や、その他もろもろのぐちゃぐちゃした感情をすべて吐き出して、しぼむように私も命が尽きてしまえばいいと思った。
だってこの町にはもう誰も居ない。医者も、警察も、頼れる人も。紗菜がいなくなってしまったいま、私ひとりで生きる意味なんてまったく無いのだから。
私はただただ泣いた。
背中まで伸ばした暗灰色の紗菜の髪。さらさらで、日光の下では天使の輪ができてきれいだったのに、紗菜はよく、緩い癖のついた私の髪を羨ましがった。
「お姉ちゃんの髪、好き」
と言って、私が家で読書をしている時によく後ろ髪を触ってきたものだから、
「じゃあ切って、あげようか?」と訊くと
「もう、そういうことじゃないの」と言ってむくれていた事を思い出す。
髪は切っても腐らないのだから、いつでも触れるように持ち運びできた方が便利かと思って訊いたのだけれど、何が気に入らなかったのだろうか。もしかして、髪を褒めるふりをして私の読んでいた本を覗いていたのだったりする?と、いま思い浮かんだのだけれど、もう確かめる術は無い。
そういえば紗菜は友達も多かったし、周囲の大人たちにも可愛がられて楽しそうだったのに、私がひとりで出かけようとすると、どういうわけか仔犬のようによく私について来たものだった。完全に私の趣味で、紗菜はこれっぽっちも興味の無さそうな、この廃工場の配管や鉄骨を眺めに来るだけの時でさえ、
「何もないねー」
と言いながらも私が満足するまでついて回ってきたりもした。私が先に生まれたという理由だけで、どうしてこうも盲目的に慕ってくるのだろう、と思ったりもしたものだった……
――ああ、色々と思い出してしまった。
もう何時間こうしているのだろう。
太陽が見えないから判らない。お腹もすかないし。
そろそろ家に帰った方がいい気がする。そんな思考が流れ込んできて、私は腰に固定している小さなポーチから注射器を取り出した。この注射器にはあの黒い花――我々は黒蝕花と呼び名をつけたが――の細胞が含まれていて、私が自決用に常備していた道具だった。この花は血液を養分にして体内で成長し、やがて皮膚を突き破って蕾をつけ、花を咲かせる。どこにでも咲くあの黒い花は、ついに人体をも苗床にする進化を遂げ、寄生花として恐れられる存在になっていた。
私は注射器の針カバーを外し、紗菜の左腕、上腕の外側に刺してゆっくりとプランジャーを押した。
これで黒蝕花が紗菜に寄生する。四日もすればきっと左腕の断面に拳の大きさほどの蕾をつけ、お天気次第だけれど七日もすれば花を咲かせるかもしれない。
紗菜の身体が鳥や虫に喰われて朽ちるなんて許せないから。だからせめて花になってほしい。
「また来るよ」
私はそう言い、ベンチの上の切り離された左手と、地面に落ちていた片手斧を回収して立ち上がった。
この左手は家で育てよう。こっちにも花の細胞を注射し、氷水で冷やして腐らせないようにすれば、水耕栽培に似た形で小さな花を咲かせてくれるかもしれない。
私は振り返り、帰路についた。
空が、ようやく白くなってきた気がした。




