第五十六話 クレア、上機嫌。
その日、クレアは上機嫌だった。その顔のツヤツヤは入学式以来、殆ど死んだ魚の目をしていたクレアにとっては珍しく、クラスメイト達が奇異な物を見る目で見ているほどである。『クレア嬢は入学式での出来事で、ついに頭が可哀想になった』とクラスメイトが陰口を叩く程である。
「……ご機嫌ですね、クレアさん」
「おはよーございます、クラウディアさん! はい! 私、すっごく上機嫌ですよ!!」
教室に入るなり、にこぱー! と笑っているクレアに、ディアも少しだけ口角を上げてクレアの隣の席、今はまだ登校していないルディの席に腰を降ろす。
「なにか良い事がありましたか? 学生寮の生活が改善された、とか?」
「ああ、その辺はもう、まるっと諦めました! 寮内中に私の悪評、広がってますし!! 談話室なんてもう、貸し切り状態ですし? もう、皆できゃっきゃウフフな明るい寮ライフは諦めます! 私は――寮を捨てるんです!! 決して、寮が私をハブにした訳ではなく! 私の方からですから!」
「そ、そうですか」
不憫。あまりにも不憫。憐憫の情と、幾ばくかの申し訳なさを込めた視線に気付き、クレアは顔の前でひらひらと手を振って見せる。
「そんな顔しないでください、クラウディアさん。良いんですよ、別に。殆ど寮では誰にも会わない訳ですし……共同生活ですしね? 中には性格とか趣味とかで合わない人もいるでしょう。でも、そんな人たちってきっと、私より高位貴族のご令嬢でしょ? 愛想笑い浮かべて生活するのはやっぱりしんどいでしょうし……よく考えれば、楽っちゃ楽でしょうし、こっちの方が。私、本当にド田舎出身ですし……派閥とか面倒くさいんですよね~。だからまあ、私は楽しみますよ! このぼっちライフを!!」
「ポジティブですわね……」
「ま、ネガっても仕方無いですしね。今更どうこう言った所で、状況は改善しませんし」
あっけらかんとそう言うクレア。彼女の美点の一つに、『落ち込むときはとことんまで落ち込むが、限度を超えるとむしろ開き直ることが出来る』という所がある。過去を振り返らない女、それこそがクレア・レークスなのだ。
「ですが……だとしたら、なぜそんなに上機嫌なのです? 現状と何も変わっていないなら、上機嫌になる事は無いのではないですか?」
言いながら首を捻るディア。確かに、落ち込むことはなくなったし気分は上向きにはなったが、流石に天元突破するほどのメンタルをクレアは持ち合わせていない。そんなディアの疑問に、クレアはにっこりと微笑んで。
「実は……男の子に『可愛い!』って言われたんですよ!! しかもお友達になって貰う事が出来ました!!」
「……その人間は誰ですか? 上級生ですか? 間諜の可能性はありませんか? もしくは強く頭を打って、記憶を一時的に喪失しているか……ま、まさか、極度のへん――コホン、特殊性癖の方などでは……?」
「……いや、クラウディアさん? 流石にちょっと酷くありません?」
ディアの言葉にジト目を向けるクレア。そんなクレアに、ディアは慌てた様に胸の前で両手をわちゃわちゃふって見せながら口を開く。
「ち、違います!! だ、だって……クレアさんですよ?」
「……流石に失礼――と言いたい所ですけど、私もちょっと思いました。まさかこの学園で私に向かって『可愛い』とか言う勇者が居るとは」
「で、ですよね!? いえ、クレアさんが愛らしい顔立ちをしているのは分かっています。分かっていますが……だって、クレアさんですよ? この国の王位継承候補第一位のエドワード殿下に公衆の面前でプロポーズされ、はれ物を扱う様な扱いを受けているクレア・レークスに対して、『可愛い』なんて……『友達』になるなんて……そんなの、一周回って勇者か苦行大好きの変態でしょう?」
「クラウディアさんの言い草があまりにも酷い件。でも、まあ……うん、分からないでは無いです。確かに私も勢いで『友達になってください』と言いましたが、まさか頷いて貰えるとは……」
「……差支え無ければどういう状況でお友達になったか、お聞きしても?」
「良いですよ。今朝、ちょっと早めに目が覚めたんですよ。二度寝も出来そうに無いくらいに快眠出来ていたので、『暇だな~』と思いまして。それで、クッキーでも焼くか~って」
「……クッキー、ですか?」
「はい。私、趣味お菓子作りですし。んで、会心の出来のクッキーだったんで、皆さんで食べないかな~って思って学校に持って来たんですよね。朝も早いし、色々あって学園の見学も出来て無かったから、見学方々、朝の学園をぷらぷらしてたんですよ。そしたらなんか、元気のない子が居たので声掛けて、クッキーを上げて……まあ、友達になろうよ、みたいな?」
「『みたいな?』ってなんですか。それで? あちらはどういう感じだったので?」
「それが、『喜んで! 僕も友達が出来て嬉しい』って言って下さったんですよ!! いや~、本当に良かったです!! まさか一年生で私と友達になってくれる人がいるとは……先輩ならワンチャン、とか思っていましたが、まだまだ同級生との友好関係を諦めるのは早いかも知れないですね、私も!!」
にこにこ笑顔のクレアに、『あ~、良かったな~』なんて素直な感想を浮かべながら――それでも、ディアは悪戯を思いついた幼子の様なにやっとした笑顔を浮かべて見せる。
「ですが……クレアさんもある意味、勇者ですね?」
「へ? 私ですか?」
「ええ。だって、今のクレアさんの『現状』って、困ってる男の子――『王子様』に声を掛けて、クッキーを上げて、優しい言葉を掛けたからでしょう? なのに、入学式と同じ轍を踏むなんて」
ニヤニヤした笑顔を浮かべて見せるディアに、クレアは苦笑を浮かべて見せる。
「ヤですね~、クラウディアさん。大丈夫です!! 私だって端っことはいえ、この国の末席を汚す貴族のご令嬢ですよ? 流石に自国の王子様くらいは覚えていますよ~……数、くらいですか」
「まあ、普通は王都に暮らしていないと顔は分かりませんしね」
「ですです。この国の王子様は二人だけですし! そもそもですね!!」
クレアはにっこりと微笑んで。
「――数日間で優しくした男の子が、二人とも王子様なんて奇跡、ある訳ないじゃないですか~」
クレアの明日は、どっちだろうか。




