第百七十一話 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃ――ダメだ!
ルンルン気分のクリスティーナに挨拶だけを済ますと、ルディはエルマーの元に向かった。別にエルマーに用があったわけではないが、それでもただでさえ陰キャ、根暗、コミュ障の三重苦を患っているエルマーが、一人ぼっちでこの後輩たちの仲で居るのもどうかと思ったからだ。やがて、目当ての人物を見つけたルディは片手を挙げて声を掛ける。
「おーい、エルマー先輩――え、エルマー先輩? ど、どうしたんですか? そんなこの世の終わりみたいな顔して!? え、ええ? なんかあったの!?」
手元の抽選の紙を見つめて呆然とした表情を浮かべていたエルマーは、掛けられた声に緩慢な動作で顔を動かす。そこにあったのがルディの顔であったことを悟り、エルマーの口から深い、とても深いため息が漏れる。
「…………ルディか……」
「……いや、うん。エルマー先輩? 人の顔見てため息を漏らすのはどうかと思うんですけど?」
あんまりにも感じ悪い。そんなルディの言葉に苦笑を浮かべ、エルマーは首を左右に振って見せる。
「ああ、すまない。そういう意味じゃないんだ。そういう意味じゃないんだが……」
そう言ってエルマーは手元の紙をルディに見せて見せる。そこには『13』と書かれた紙があった。
「エルマー先輩、13番なんだ。それじゃユリア先輩も13番?」
ルディの言葉に、エルマーは首を左右に振って見せる。
「いや……ユリア嬢は違う。5番だった」
「……へ? そ、それじゃエルマー先輩、見ず知らずの一年生とペアを組むって事ですか!? だ、大丈夫なんですか、それ!?」
「……大丈夫じゃないからこの世の終わりみたいな表情を浮かべているんだ」
もう一度、深い、ふかーいため息を吐くエルマー。そんなエルマーに、ルディは口をもごもごとさせた後、ルディに視線を向ける。
「――今から不参加にしても良いかな、ルディ?」
「……本来はダメって言うべきなんだけど、今のエルマー先輩を見てたらなんも言えねぇ……」
絶望が服を着て歩いています、と言わんばかりのエルマーの姿にルディの表情に同情の色が宿る。が、それも数瞬、ルディが力強く一つ頷くと、エルマーの肩を『ガシっ』と掴む。びっくりした様なエルマーの視線から目を逸らすことなく、ルディは言葉を継いだ。
「エルマー先輩、これはチャンスですよ!!」
「……チャンス?」
「そう!! エルマー先輩、今まで人付き合いから逃げてたでしょ?」
「に、逃げていた訳ではない! 得意では無いから触れない様にしていただけだ!」
「それを逃げてたって言うんです!! ともかく! これはチャンスですよ、エルマー先輩!! 折角のペアなんですから! 此処で『人と喋る』という練習をしましょう!!」
「ひ、人と喋る練習だぁ!? そ、そんなものは要らん! 俺には研究がある! だから研究だけ――」
喋りかけて、言葉を止める。ルディから何かを言われた訳ではない。訳ではないが、ルディの瞳は言葉以上に雄弁にエルマーに語り掛けていたから。
「……良いんですか、エルマー先輩? これから先、ずっとこのまま人とのコミュニケーションを取らなくても?」
「べ、別段困ることは……」
「本当に?」
「……」
「……別に、僕も無理強いする訳じゃないですし……エルマー先輩が普通に政略結婚して引き籠るんだったら何にも言わないんですけどね? でもね、エルマー先輩?」
ユリア先輩、可哀想じゃないですか? と。
「……それは……」
「勿論、エルマー先輩が研究や開発に秀でている事は知っています。でもね、エルマー先輩? 貴族に取って『人間関係』の構築ってのは、重要な『政治』なんですよ? それ、貴族に取っての仕事なんです。それを全部、ユリア先輩に投げるつもりですか?」
「ゆ、ユリア嬢と結婚は……ま、まあ、可能性としてある! あるが……だ、だが、ユリア嬢はきっと分かって――」
もう一度、エルマーは言葉を止める。
「――本気で言ってんの、エルマー先輩?」
ルディの、射貫くような冷たい目を見たから。
「……すまない、失言だった」
「……まあ、ユリア先輩なら笑って受け入れてくれると思いますよ? でも……それって、格好悪くないですか? 自分の苦手な事から……『イヤ』な事から逃げて、自分の大事な人に任せっきりって」
「……お前の言う通りだ。謝る。だから……勘弁してくれ」
そう言って頭を下げるエルマー。しばし下げ続けた後、上げた顔には先程までの悲壮感は無かった。
「……そうだな。ありがとう、ルディ。おかげで目が覚めた。バーデン家は徴税の専門家、幾ら嫁に取ると言っても、社交とは無縁では言えないだろう。ユリア嬢に――ユリアに恥を欠かせないための練習と思わせて貰おう」
相手には失礼だろうがな、と笑って。
「……だが、まさかお前に言われるとはな、ルディ。どうした? なにか心境の変化でもあったのか?」
「んー……まあ、僕も今まで通りじゃいられないかなって思っただけですよ? 今、ウチの国……というか、ウチの家か。ウチの家、色々面倒臭い事になっていますし」
そう言って苦笑を浮かべるルディに、エルマーも苦笑を浮かべて見せる。
「……大変だな、お互い」
「です。頑張りましょう」
「そうだな。お前ももし、しんどくなったら言えよ? なんの助けにもならんかも知れんが、これでもお前の『友達』だと思っている。精一杯、努力は惜しまないつもりだ」
「うん、ありがとう、エルマー先輩。心強いよ」
エルマーの言葉に、ルディも笑顔を浮かべる。と、その時『13番の方~。おられますか~』という声が聞こえて来た。
「ほら、エルマー先輩! お相手が探してますよ?」
「あ、ああ。そうだな……ふぅ。き、緊張して来た……」
「……逃げないでくださいよ?」
「……逃げないさ。正直、本気で逃げ出したい。逃げ出したいが……それでも頑張らなくてはな」
そう言って、決意を固めた顔をしてエルマーは手を挙げ『13番は俺だ』と声を出す。その声が聞こえたのか、『ちょ、ちょっと済みません』という声が聞こえ、人の波を掻き分け――
「……なんでモーセの海割みたいになってんの?」
掻き分け、ない。『ちょっと済みません』の声が聞こえた瞬間、混雑していた人の波が『ずさーっ』とばかりに割れ、一本の道を作る。その道の先に居たのは。
「あ、13番の方――って、エルマー先輩ですか! うわ、うわ! 良かった~! エルマー先輩、よろしくお願いしますね!!」
ぶんぶんと、嬉しそうに手を振って見せるクレアの姿だった。




