第八話 兆し
背後から聞こえる明るい笑い声につられ、前を歩く聖夜たちの口元にも笑みが浮かぶ。
去年の今ごろは、こんなささいな日常が聖夜のすべてだった。苦しかった受験勉強も、自分が就きたい仕事のためのものだと思えば、積極的に取り組めた。
祐司や彼の友達には知る由もないだろう。彼らのような生活を、聖夜が手放さざるを得なかったことを。
心の奥にある未練——それが聖夜をこの学園都市に連れてきた。この街こそが、目指した大学のある場所だった。
小さな感傷を抱きつつ、指の間からこぼれた過去を思い出す。穏やかだった日々のことを思い浮かべながら校庭を歩いていると、去年の事件が夢のような気がしてくる。
あれ以上まわりに惨劇を呼び込みたくなくて、住み慣れた街を飛び出した。だがそのあとは、ヴァンパイアに遭うこともなければ、血の渇きを覚えることもない。あのときハンターのレンが妙な警告をしなければ、そして死に際にドルーが残した言葉がなかったら、短絡的に心地よい場所から離れなかったかもしれない。
そんな考えがよぎるたびに聖夜は、故郷で再び生活することを想像する。
(あと少し。せめて一年の間、何も起きなければぼくは……)
ふたりの少女と夜の世界に渡った母を亡くした。でも父と親友はまだ残っている。彼らの前に再び姿を現したら、素直に受け入れてくれるだろうか。
「聖夜くん。着いたよ」
背後からかけられた加織の声で、聖夜はわれにかえる。気がついたら目の前に立派な講堂があった。
大きな看板は、アマチュアとは思えない出来栄えだ。おそらく専門家の手によるものだ。ちょっとした小劇場なみの力の入れようだ。
生徒たちにまじって、一般客も多く足を運んでいる。中にはプロの劇団関係者と想われるような人もいた。テレビや映画で見たことのある俳優や女優の姿も混じっている。
——各部活動は本格的なものが多くて、青田刈りを兼ねて視察にくる専門家もいるらしいぜ。
校内に踏み入れたときに祐司が話していたのは、このことだった。
「あたし、受付でスタッフ用の通行許可証を貰ってくるね」
澪は小走りで、入口に用意された長机にある受付に向かう。
「すっげぇなあ」
祐司が講堂を見上げ、ため息と共につぶやく。
「さすがお金持ちのお嬢様学校だ。こんな広いホールを校内に持っているなんて」
演劇部の公演が行われるここは、パンフレットによると二千人規模のホールだ。
「いつかこんなところでライブしたいぜ」
胸の前で、両手の拳を握る。
「夢はでっかくもってなくちゃね」
加織が応援するように祐司に答えた。
「OK出たわよ。はい、楽屋の通行許可証」
受付で何か伝えていた澪が、人数分のそれを手にして戻ってきた。受付で見せると、聖夜たちは入口で楽屋の方に誘導された。澪が慣れた足取りで、一行を舞台の袖まで連れていく。
最後の確認で走り回る裏方の部員と、舞台衣装に身を包んだ部員の姿が行き交っている。別室にいる音響係と照明係は、時間まで邪魔にならないようなBGMを流している。
慌ただしい中にも、本番前によくありそうな緊張に包まれていた。
だが聖夜は講堂に入ってから、説明のつかない胸騒ぎを覚えている。はじめは、本番前の部員たちの緊張に影響されたのかと思った。だがそんな前向きなものではない。どこかそれは禍々しい、およそ学校の文化祭とはかけ離れたものだ。
(この感じは学園祭のムードに似つかわしくない)
去年の冬に嫌というほど経験した邪気なのか?
(いや……これはヴァンパイアと対峙したときに感じたものではない)
邪気の源は解らない。去年の冬以来こういうものに接する機会がなかったので、聖夜自身の記憶も曖昧になっている。
(気にするほどのことでもないさ。しばらくぶりの学校という場所で、ぼく自身が気後れしている可能性だってあるんだから)
聖夜は不穏な予感を心から閉め出した。幸いなことに加織たちにはなにも感じられないようだ。慣れたようすの澪に、やや緊張しながらついていく加織と祐司の姿は、どことなく微笑ましい。
澪につれられて舞台の袖までいくと、役者にいろいろと最後の指示をしている少女がいた。演出担当だろうか。衣装を纏った緊張気味の少女を勇気づけるように、アドバイスをしている。
やがて役者は緊張がほぐれたのだろう。自身ありげな笑顔とともに演出家の側を離れ、役者たちの輪に加わった。
対する演出家は、大きくため息をつきながら、そばにある椅子に腰掛けた。
「江莉、調子はどう?」
澪が声をかけると、演出家らしき少女がふりかえる。見慣れた顔ぶれの中に男性陣が含まれているのが意外らしく、座ったばかりの椅子から立ち上がった。そして優雅な動作とともに笑顔で聖夜たちを迎えてくれた。
透けるように白い肌で、軽いくせのある赤みがかった髪は、肩のあたりまでの長さだ。優しい包容力を感じさせる一方で、知性を感じさせる顔立ちをしている。
有名な名士の子女が多い学園の中でも、際立った存在なのは一目で解った。
制服姿でいながら、舞台衣装を着ている少女たちに劣ることなく華やかな印象をあたえる。名実ともに生まれながらのお嬢様だ。箱入り娘ではなく自分の意思で行動しているのは、聖夜にも一目で理解できた。
このときになって、見覚えのある少女だと聖夜は気づいた。高等部で生徒会長を務める香取江莉だ。
「わざわざお越しくださって、ありがとうございます」
軽く会釈する姿も、上品で優雅だ。聖夜のすぐそばで、加織がほぅとため息をつく。
「ぼくの記憶違いでなければ、一度、澪さんの病室でお会いしました。月島聖夜です」
「ええ、覚えていますわ。こちらの方は、仁科祐司さんでしたね」
「は、はい……」
江莉の優雅さに、祐司はすっかり舞い上がっている。
「あ、香取さん……あたしも一緒だけど……よかったかな?」
加織は聖夜の背後に隠れ、半分顔を出しつつ江莉に話しかけた。
「もちろんよ。来てくれてうれしいわ」
クラスメートには、くだけた口調で笑顔をむける。加織は少し頬を染め、口元に笑みを浮かべた。
「江莉。急に来て迷惑じゃなかった?」
「大丈夫よ。ちょうど話し終ったところなの。澪は何も心配しなくていいわ」
答えながら江莉は、視線を役者たちの輪に移す。聖夜もつられて彼女たちを見る。本番直前で緊張しているかと想像していた。だが笑い声も聞こえ、意外にリラックスしている。
「役者のメンタル・ケアも生徒会長の仕事なのかな。大変だ」
祐司が誰に問いかけるでもなく口にする。
「生徒会長だからじゃなくて、演劇部長だから。香取さんは顧問の先生とふたりで、舞台演出をしているんだよ」
加織は演劇部のチラシを見せ、スタッフ一覧が書かれた部分を指差した。
「なるほど。そういうことか。いろいろと大変ですね」
祐司のねぎらいに、江莉は礼を述べて続ける。
「彼女は三日前急に主役に抜擢されたから、本当に緊張していました。だから『あなたの実力をみて、できると思ったから代役にしたのよ』と励ましていたところだったんです」
「主役って、高木さんじゃなかった?」
澪の問いかけに、江莉は少し目を伏せる。
「そういえば高木さん、二、三日休んでいたね。具合が悪くて交代したの?」
口元に左手を当て、加織が澪と江莉に問いかけた。
江莉は一度口を開きかけた。だがそれを閉じて視線を落とす。一瞬ためらったのち、首を横にふった。
「実は高木さん……三日前から連絡が取れないんです」
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