第七話 「いない者」と「違和感のない者」
カーテンで仕切られた調理場にもどると、加織は先ほど自分の取った行動を思い返す。
勢いで祐司を誘ったが、本当によかったのか。同伴する澪の気持ちを考えると、迷惑をかけたような不安が湧いてくる。
澪はほかのクラスメートたちと共に、コーヒーを入れたりワッフルを焼いたりと忙しく働いている。ときどき上がる笑い声は、加織には手の届かない遠い世界だ。「手伝うよ」の一言が言えず、調理場のすみでポツンと立っているしかできない。
聖夜と親しくなったのがきっかけで、加織は悪い仲間とのつきあいを断った。そして教室の仲間とうまくやろうと決心した。学園祭の模擬店に協力したのも、そのためだった。
だが実際に現場に立っても、クラスメートは加織を避ける。
(仕方ないことだってくらい、解っていたつもりだった……)
つい先日までは、加織自身が彼女たちを拒否していた。
校則違反だと知りながら髪を染め、制服も着崩していた。気に入らなければ授業もすぐに抜け出す。教師も生徒も、加織を「いない者」として無視することで、平穏な日常を保っていた。
名門女子校と謳いながら、大口の寄附をする保護者が望むならば、面倒な子供を寮生として受け入れる。加織はそのひとりだった。
昨日までわがまま放題で行動していた「いない者」が、見かけを変えて「違和感のない者」になった。それでも中身が変わっているとは思わない。それが人間の心理だ。ましてや加織は、不良仲間とつるんでいた。見た目を普通に変えたところで、みんなが怖がって近寄らないのも当然の結果だ。
クラスメートが遠巻きで見てしまうのは火を見るより明らかだ。
それでも、ひとりは落ちつかない。もどかしくてたまらないくせに、加織は輪の中に入る勇気が持てない。
(また拒否されるのは、もうたくさんだ)
行き場をなくしたまま、加織は調理場の片隅に立つ。以前のように「いない者」に戻っていたらどんなに楽だったろう。
加織は唇をかみながら視線を落とし、苛立ちのまま暴れたくなる衝動を抑える。過ちは繰り返さない。カーテンの向こう側にいる聖夜と約束したのだから。
「三村さん、これ、運んでもらえる?」
不意に声をかけられ、加織は恐る恐る顔を上げた。口元に自然な笑みを浮かべた澪が、トレイにコーヒーカップとワッフルをのせて差し出している。
「祐司さんたちの分よ。三村さんがもっていったら、聖夜さんも喜ぶでしょ」
加織は一度受け取りかけたが、無意識のうちに引っ込めた。これはどういうことなのか。澪の真意が解らない。
躊躇う加織に、澪がウインクしながらトレイをわたす。勢いで受け取ったが、その行動が正しいのか自信がなかった。
「お願いね。早くしないと冷めちゃうから」
「あ、そ、そうだね」
加織はカーテンを開けようとしたが、ふと立ち止まり、ふりかえって澪を見た。
「田崎さん……さっきの約束、迷惑じゃなかった?」
「どうして? 校内を回るのなら、大勢の方が楽しいでしょ。迷惑だなんて思っていないから心配しないで」
予想もしない言葉が、澪の口から出てきた。それでも加織は素直に喜べない。
「だって、あたしなんかと一緒にいると、田崎さんも不良仲間だって思われないかな……」
はみ出し者と一緒にいると、同じように扱われる。澪は不安にならないのだろうか。
(グループの中でうまくやっているから、いない者にされることなんて考えたこともないんでしょうね)
「やだ、そんな心配していたなんて気づかなかったわ」
あっけらかんとした答えが返ってきた。
「本当にいやだったら、誘われたときに断るわよ。それどころか誘ってもらえて、うれしかったんだから」
澪は加織に一歩近寄り、ここだけの話よ、と前置きして声を顰める。
「この学校の人ってお嬢様ばかりでしょ。上品なのはいいけれど、その分壁があるっていうか、建前だけでグループになっているっていうか……あたしはみんなの本音が見えなくて窮屈なの。その点三村さんは気取ってないし。みんな、三村さんみたいに皮を破りたいのかもしれない。でもそんな勇気が出ないから、見ないふりをすることで安心しているように感じるの」
あたしもそのひとりだった、と一瞬視線を落として澪はつぶやく。そして顔を上げると本当に自然な笑顔を浮かべた。
「だからあたし、三村さんと親しくなれたら楽しいだろうなって想像していたの」
澪の評価は高すぎる。
(そこまで深く考えたことなんてないのに)
邪気のない微笑みがまぶしくて、加織は視線を外してしまう。
本音を見せているわけではない。みんなのように賢くふるまうだけの知恵がなかった。
だが他の人はともかく、澪は加織をそんなふうに見ている。ならば思ったことを素直に口にしよう。
「そ……それって、あたしがお嬢様じゃないって意味なの?」
「えっ、そう聞こえた?」
加織は小さくうなずいた。
「じゃあ、そういうことにしておくね」
あっけらかんと答える澪を見て、加織は苦笑いする。澪もつられて笑顔を浮かべた。
「田崎さん、そこは否定してほしかったな」
「否定しないわよ。あたしだってお嬢様じゃないもの。三村さんがお嬢様だったら、あたしも着飾らないといけないし」
(そうなんだ)
何かを装う自分でいるのが嫌だと感じているのは、加織だけではない。たったそれだけのことが、加織の心を和ませる。
「田崎さん。ひとつお願いしていい?」
「何? あたしにできることならね」
「これからは『三村さん』じゃなくて……『加織』って呼んでくれる?」
澪は少し目を丸くして、やがて目を細める。
「いいわよ。あたしのことも『澪』って呼んでね」
加織の胸に温かいものが広がる。このクラスにいて、こんな感情を抱けるとは思わなかった。こんな日が来ると未来の自分が教えに来ても、信じられただろうか。
(あたしにも居場所ができたんだ)
やっとひとり、自分を受け入れてくれるクラスメートをみつけた。飛び上がりたくなるくらい嬉しい気持ちがわき上がる一方で、いつまで続くのかという不安が心の片隅をよぎる。
本当に信じていいんだろうか。これからというときに、いきなり手をふりはらわれはしないだろうか。
この幸福感はそう長くは続かない。理由はわからないが、加織の胸に黒いインクの雫が落ちる。
(やめよう、そんなふうに考えるのは)
悪い予感は不安が引き起こしたものだ。黒い霧を追い払い、加織はトレイを手にして聖夜たちの待つテーブルに向かった。
「祐司さん、どうやって田崎さん……じゃない、澪と知り合ったの? 夜遊びもバンドの追っかけもしない子だから、出会いが想像できないのよ」
四人連れ立って講堂にむかう道すがら、加織は祐司のそでを引っ張って問いかけた。
澪は聖夜とならんで、加織たちの前を歩いている。親密とまではいかないが、思った以上にうちとけた会話を交わしている。
聖夜とバイト先以外で会えるようになるまで、加織には半年以上の期間が必要だった。そんな自分とは対照的だ。祐司と澪がつきあっていると知らなければ、嫉妬しそうな雰囲気さえある。
「夏休みの中ごろに、駅の向こう側にある旧市街地で、通り魔事件があったのは覚えている?」
「あれね。前はあたしもあの辺りをうろついていたから、一歩間違えたら巻き込まれていたかと思うとゾッとしたの」
もっともそのころの加織は、昔の仲間とはすでに縁を切っていた。だから向こうの街にいくことはなかっただろう。
「実はあの日、澪は注文していた本を受け取りに、書店に行ったんだ。そして事件の被害者になったんだけど……。そこまでは知らなかったかな」
「えっ? 全然知らなかった……」
やはり「いない者」にはクラスメートの大事件も届かないのか。
「同じように書店に出かけた聖夜も巻き込まれてね。あいつって見かけによらず運動神経があって肝も座っているらしいぜ。通り魔を押さえに飛びかかったとき、刃物で軽い怪我をした程度で終わったんだってさ。それだけじゃなく、動けないでいる周りをよそに、大怪我を負った澪の救命処置をしたんだよ」
「そんなことがあったなんて、全然知らなかった」
聖夜は一度も話してくれなかった。いいことをしたのだから自慢話をしてもよさそうなのに、絶対にしない。
聞けば教えてくれるが、自分のことは話したがらない。加織には「素直な姿を見せて、人と接するんだよ」と諭す。でも壁を作って表面的なつきあいをしているのは、聖夜の方だ。
「聖夜の判断と行動のおかげで、澪は医者の見立てより早く回復したんだ。二学期が始まるころには普通に通学できたんだぜ」
「いいな。聖夜くんにそこまでしてもらえるのって……」
事件の被害者を羨むことはタブーだと解っている。でも湧いてくる気持ちは抑えられず、つい独り言が出てしまう。
「え?」
「ううん。なんでもない。そういえば確か、犯人はすぐに取り押さえられたんだったよね」
本音をあわてて消して、加織は会話をつなぐ。
「聖夜が凶器を取り上げたから、そばにいた体育会系の高校生が協力してくれたんだとさ」
協力者が現れた途端、怪我人の手当てに移る聖夜を、加織は想像した。まるで絵に描いたようなヒーローだ。
こんな動きが身についている人がどれだけいるだろう。加織はそこに、聖夜が語りたがらない過去を垣間見た。
「祐司さんは現場にいなかったのに、どうしてそれが澪と知り合うきっかけになったの?」
「事件のあと二、三日して、聖夜が澪の見舞いに行ったんだ。そのとき俺は何か予感がしてついていったのさ。そしたらベッドに横たわっていたのが、ひそかに想っていた女の子だったんだぜ。その瞬間おれは、運命を感じたね」
ハハハッと祐司は陽気に笑った。
「ひそかにって……どこで澪の存在を知ったの? まさかストーカーしていたとか?」
加織が一歩引こうとすると、
「失礼だな。バイト先のファースト・フードで、何度か対応したんだよ」
と祐司はあっけらかんと返答した。
祐司は週に何日かハンバーガーショップで受付のバイトをしている。加織も客としてようすを見にいったことを思い出した。
「ふうん。祐司さんって仕事をサボってお客さんに目をつけていたのね」
「そんなわけないだろ。澪が何度も来てくれたから、自然と顔を覚えたんだよ。名前も学校もわからない、ただの店員と客の関係。それ以上でも以下でもなかったさ。ストーカーなんてできるもんか」
祐司は口元を歪める。さすがに言いすぎたと、加織は視線を泳がせる。すると祐司はすかさず、
「確かに女子高生の立場だと、素直に喜べないよな。加織ちゃんが心配するのも当たり前だよ」
と、フォローしてくれた。加織の気持ちを読み取ったのかもしれない。
(祐司さんって、本当に気配りの人だな。素敵な彼氏と出会えてよかったね、澪)
こんな人たちと出会えた運命に、加織は自分の巡り合わせの幸運を感じる。温もりのある日々がずっと続きますように、と願わずにはいられなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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