第二話 狩り人
ティーカップを手に、男は窓越しに街を見下ろしている。
突然の豪雨で、とおりを行き交う人々は足早に建物に避難した。
灰色の雲でおおわれた空を破るように、幾度も稲光が落ちた。
音が届くまで僅かに時間差がある。雷雲はまだ遠くにあるのだろう。
(雷は神鳴り……神が罪人を裁くために落とすもの。
それが事実ならば、いつ私が貫かれてもおかしくない)
男はそういう想いで閃光を見つめるのが常になっていた。
そのときだ。何かが滴り落ちる音が耳に届いた。
それを聞いた男は何気なく手元に視線を落とす。
「こ、これは……今になってこんなことが!」
滴り落ちる物、それは男の掌から流れている血だ。
肘まで赤い糸のように軌跡を残し、そこから滴り落ちてカーペットを赤く染めている。
男は手にしたカップを落とした。
カップはカーペットの上を転がり、こぼれた紅茶が血にまじる。
恐る恐る男は自分の両手を開き、掌に視線を落とす。
キリストが磔にされたとき、杭を打たれた場所——そこと同じ場所から大量の血が流れる。
止血などしても役に立たない。
気づいたときにはもう全身の血が出尽くしたといっても過言ではない量の血。
それが床一面に広がっている。
だか痛みも貧血症状も一切ない。
「なんてことだ……」
男がそう呟いたときだ。
大きな音と閃光が部屋を貫く。
同時に部屋の灯りが消え、辺りは暗闇に包まれた。
過ぎ去りし過去の記憶が蘇る。
これが意味するものはただひとつ、それの復活だ。
激しい雷鳴が轟き雷雲の接近を教える。
次の一撃は、罪人である自分に落ちてもおかしくない。
男の脳裏にそのような考えがよぎる。
男は窓を開き、両腕を広げて目を閉じた。
あの日からずっと待ち続けていた。
恐れるものはなにもない。
だが空気を揺らがせる閃光はここには届かない。
(私の罪は、使命をはたさなければ裁かれることもないのか。
だが、今の私にあやつと対峙できるのか?)
脳裏に浮かぶのは、共に日々を過ごし、戦いの中で散っていった仲間たちの顔だった。
使命を引き継ぐ者たちは、やり残した仕事に終止符を打ってくれるのか?
(神よ、今一度私に力を与えたまえ)
「私はどうすればよいのだ?
選ぶべき道は、運命は?」
男は天にむかい問いかける。し
かしいつまで待てども、啓示は少しも降りてこない。
やがて雷鳴は遠くに過ぎさり、風も雨も感じなくなった。
☆ ☆ ☆
男はゆっくりと目を開けた。
部屋も衣服も元のままで、血の痕跡はどこにも残っていない。
幻が消えるように消えていた。掌に傷痕らしきものは見られない。
「また白昼夢を見たのか」
男は今と同じものを何度も見ていた。
今更ながら動揺した自分が情けなくなる。
かつての体験が男の脳裏に鮮明に甦る。
あのときも、初まりは白昼夢だった。
血の海となった部屋で全身を赤く染めながら、男は自分の能力が発する信号を受けとめていた。
長い時代をこえて、この街を幾度となく震撼させた魔物が、目覚めのときを迎えているというのか。
「いや、そんなはずはない。
あれは完全に封印されている」
かつて男は魔物を倒し、二度と出られないように魂を二重に封印した。
自分の持つ能力を半永久的な鎖に変え、魔物を封じこめた。
以来男は白昼夢を見なくなった。
力を使いはたし、どこにでもいる平凡なただの人になった。
結果的に仲間たちとの別離を余儀なくされたが、後悔はなかった。
すべての力を鎖に変えたあとも、番人は留まらねばならぬ。
異能者の能力こそなくしても男は優秀なハンターである。
身体に刻みつけた戦闘力は健在だった。
封印された魔物が脱出の兆しを見せるなら、命に変えてでも倒さねばならぬ。
一方で、封印された魔物は徐々に力を失い、やがて消滅していくものだと確信していた。
(しかし現実はそんなに甘くはなかった。
確信ではなく私の勝手な思い込み、いや、願いだったのかもしれぬ)
胸に鉛を呑みこんだように重く苦しい心を抱いたまま、男は身体をソファーにあずけた。
ひとりでは広すぎる部屋の壁に、つい先だって逝ってしまった妻の写真が飾ってある。
実年齢よりも年老いた外見をしていたのは、若いころに体験した恐怖のためか。
あるいは魔物を抑えるために、その身を削っていたのが原因か。
今の幻は、彼女の残された想いが男に見せたものかもしれない。
逝ったはずの妻は残された者たちを憂い、地上を彷徨っているのか。
そして男の身体に残っていた力の残り火を燃やし、警告を発してきたに違いない。
魔物の封印が解けたか。あるいは新たな敵の出現か。
いずれにせよ、この街の平穏な時間は終わろうとしている。
(恐怖と試練の日々がはじまる。
時代をこえ、幾度となく繰り返された悲劇が再現されるというのか)
魔物のうごめきなどは些細なことだ。
それがひきおこす悲劇が、男の心に痛みをあたえる。
なんとしてもあれを阻止し、過去の悲劇をくりかえしてはならぬ。
今の男は平和な日々を暮らすうちに、身体能力は衰えた。自分の無力さは、痛いほど理解している。
せめてあのころの仲間に、魔物の存在を伝えることができたなら——。
認めたくはなかったが、男は自分の力を過大評価していた。
(血の滲むような努力をしても、私はあの方のようにはなれなかった)
男は、サイドボードの上にひっそりとおかれた十字架を手に取る。
そして思い出をたどるように目を閉じた。
☆ ☆ ☆
つらいとき、苦しいとき、悲しいとき。
そのときどきに男は、ある人物の肖像画を見て、自分自身を叱咤激励してきた。
その昔——書庫の奥にある物置部屋にひっそりとおかれた肖像画をみつけたのはほんの偶然からだった。
帰る故郷をもたない幼い少年は、厳しい訓練から逃げ出すために、かび臭いにおいのする書庫で、だれにも見せることなく頬をぬらす。
そんな彼が片隅に眠る肖像画を見つけるまで、時間はかからなかった。
その日少年は、涙をねじ伏せきれず書庫に逃げ込んだ。
走った拍子に埃がまって咳き込んだとき、やけに古い布が視界に入る。
布は何かを隠すように被せられていた。
手で涙を拭いながら捲ると肖像画が出てきた。
青年の姿が描かれたもので、数百年前の日付が入っている。
やわらかな微笑みを浮かべる肖像画は、少年を慰めているようだ。
以来少年は、涙を流す代わりに心の中で肖像画に話しかけるようになる。
組織で学んでいたある日、この人物について師に教えられた。
彼の一生を知った少年は、笑顔の裏に胸をしめつけるような哀しみを垣間見る。
同時に彼を苦しませた宿命に自分の姿が重なるように感じられた。
あの寂しげな微笑みは何十年たった今でも、男の脳裏に鮮明に焼きついている。
師の話によると、肖像画の青年は戦場に赴いたまま帰らなかった。
最強の力をもった彼が勝てなかった相手とは、どれほど強大な敵だったのか……。
青年への淡い憧れが、幼かった男に、過酷な宿命にたちむかう勇気と自信をあたえた。
いつか彼のようになれる日を夢見てつらい訓練をたえぬき、組織でもトップクラスのハンターと成長した。
☆ ☆ ☆
(それが今では、このざまだ)
どこまで努力を重ねても、人間の力には限界がある。
生まれながらの異能者には及ばない。
(ここにあの方がいたなら——彼なら確実に、この悲劇にピリオドが打てるのに!)
少年のころ見ていた肖像画は、なにも語ってくれなかった。
彼の生死は組織の集めた文献だけでは知る由もなかった。
帰らぬ人となったのか、組織を離れて一匹狼として生きる道を選んだのか、あるいは——。
それでも男には十分だ。
遠い昔の物語に祈りをたくすことで、この瞬間、心に広がる哀しみと闘う力が得られるのだから。
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