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パラダイス・ロスト  作者: 須賀マサキ
プロローグ
2/11

第二話 狩り人

 ティーカップを手に、男は窓越しに街を見下ろしている。突然の豪雨で、通りを行き交う人々は足早に建物に避難した。灰色の雲でおおわれた空を破るように、幾度も稲光が落ちた。音が届くまで(わず)かに時間差がある。雷雲はまだ遠くにあるのだろう。

 雷は神鳴――神が罪人を裁くために落とすもの。それが事実ならばいつ自分が(つらぬ)かれてもおかしくない。男はそういう想いで閃光を見つめるのが常になっていた。

 そのときだ。雫が床に落ちる音につられ、男は何気なく自分の足元に視線を落とす。

 カーペットに数カ所の赤い点ができていた。カップをもった手から腕をつたって絶え間なく流れ、肘で赤い(しずく)となり、やがて赤い血だまりを作る。

 思いもよらぬ出来事に男は手の中のカップを落とした。カップはカーペットの上を転がり、こぼれた紅茶が血にまじる。

 男はゆっくりと(てのひら)を広げ、小刻みにふるえる自分の両手を見つめた。

「これは……」

 掌に深い傷が刻まれている。

 血があふれだしているのはこの傷痕(スティグマ)だ。痛みはないのに、血はとめどなくしたたり落ちて、衣服や床を赤く染める。おびただしい量は全身の血が流れ出したといっても過言ではない。

 男の視界は一面血の赤で彩られた。

「なんてことだ」

 痛みではなく恐怖のために、男は全身をふるわせた。


 激しい雷鳴が(とどろ)き雷雲の接近を教える。

 次の一撃は、罪人である自分に落ちるだろう。男の脳裏にそのような考えがよぎる。

(わたしの罪は死によって裁かれるのか)

 男は窓を開き、両腕を広げて目を閉じる。あの日からずっと待ち続けていた。恐れるものはなにもない。

(やっとこの日を迎えることになった。だが――今わたしがされば、誰が魔物と対峙する? あとを継いでくれる者はいるのか?)

 脳裏に浮かぶのは、共に日々を過ごし、戦いの中で散っていった仲間たちの顔だ。我らの意志を引き継ぐ者たちは、やり残した仕事に終止符を打ってくれるのか?

(まだこの世をさるわけにはいかない。最後までやり遂げるから、神よ、今一度私に時間を与えたまえ)

 窓から吹き込む激しい雨に全身を濡らし、強い風に体温が奪われる。このままでは凍えて死に至るかもしれない。

(わたしは(いかずち)に打たれる資格すらないのか――)

 この身はどうすればよいのだ。選ぶべき道は、運命はどこにある。

 男は天にむかい問いかける。しかし啓示は少しも聞こえない。

 やがて雷鳴は遠くに過ぎさり、風も雨も感じなくなった。



    ☆  ☆  ☆



 男はゆっくりと目をあける。

 部屋も衣服も元のままで、血の痕跡はどこにも残っていない。幻が消えるように消えていた。

 驚愕の中で掌を見る。そこに傷痕らしきものはまったく見られない。

「また予知夢を見たのか……」

 かつての体験が、男の脳裏に鮮明によみがえる。あのときも、はじまりは今と同じだった。血の海となった部屋で全身を赤く染めながら、男は自分の能力が発する信号を受けとめていた。

「まさか、()()が目覚めようとしているのか」

 長いときをこえて、この街を幾度となく震撼(しんかん)させた魔物が、目覚めのときを迎えているというのか。

「いや、そんなはずはない。あれは完全に封印されている」

 かつて男は魔物を倒し、二度と出られないように魂を二重に封印した。自分の持つ能力を半永久的な鎖に変え、魔物を封じこめた。

 以来男は予知夢を見なくなった。力を使いはたし、どこにでもいる普通の人間となった。結果的に仲間たちとの別離を余儀なくされたが、それこそが男の望みだった。

 すべての力を鎖に変えたあとも、番人としてこの地に(とど)まる者は必要だ。能力こそなくしても男は優秀なハンターであることは変わりない。身体に刻みつけた戦闘力は健在だった。

 封印された魔物が脱出の(きざ)しを見せるなら、命に変えてでも倒さねばならない。その日の訪れを男は恐れていた。一方で、封印された魔物は徐々に力を失い、やがて消滅していくものだと確信していた。

(今にして思えば、わたし自身の願いだったのかもしれないな)

 胸に鉛を呑みこんだように重く苦しい心を抱いたまま、男は年老いた身体をソファーにあずけた。

 ひとりでは広すぎる部屋の壁に、つい先だって逝ってしまった妻の写真が飾ってある。実年齢よりも年老いた外見をしていたのは、若いころに体験した恐怖のためか。あるいは魔物を抑えるために、その身を削っていたのが原因か。

 今の幻は、彼女の残された想いが男に見せた予知夢かもしれない。逝ったはずの妻は残された者たちを憂い、地上を彷徨っているのか。そして男の身体に残っていた力の残り火を燃やし、警告を発してきたに違いない。

 魔物の封印が解けたか。あるいは新たな魔物の出現か。

 いずれにせよ、この街の平穏な時間は終わろうとしている。

(恐怖と試練の日々がはじまる。時代をこえ、幾度となく繰り返された悲劇が再現されるというのか)

 魔性のうごめきなどは些細(ささい)なことだ。それがひきおこす悲劇が男の心に痛みをあたえる。

 なんとしてもあれを阻止し、過去の悲劇をくりかえしてはならない。

 しかし今の男はどこにでもいる老い先短い老人に過ぎない。平和な日々を暮らすうちに、身体能力は衰えた。自分が無力なことは、痛いほど理解している。

 組織は役に立たなくなった男をあっさりと切り捨てた。あのころ感じていた絆はとうに(つい)えた。

 組織との連絡方法はすべて断たれている。今さらながら、そのことが悔やまれてならない。

 せめてあのころの仲間に、魔物の存在を伝えることができたなら――。

(完全に消滅させたと思ったのは、わたしの錯覚だった。能力をなくした人間には、魔性を滅ぼすことができないということか)

 認めたくはなかったが、男は自分の力を過大評価していた。

(やはり、あの方のようにはなれなかった)

 男は、サイドボードの上にひっそりとおかれた十字架を手に取る。そして思い出をたどるように目を閉じた。



    ☆  ☆  ☆



 つらいとき、苦しいとき、悲しいとき。そのときどきに男は、きまってある人物の肖像画を見て、自分自身を叱咤激励してきた。


 その昔――書庫の奥にひっそりとおかれた肖像画をみつけたのは偶然からだった。帰る故郷(ふるさと)をもたない幼い少年は、厳しい訓練から逃げ出すために、かび臭いにおいのする書庫で、だれにも見せることなく頬をぬらした。

 そんな彼が片隅に眠る肖像画を見つけるまで、時間はかからなかった。

 その日少年は、涙をねじ伏せきれず書庫に逃げ込んだ。走った拍子に(ほこり)が舞って咳き込んだとき、やけに古い布が視界に入る。布は何かを隠すように被せられていた。手で涙を(ぬぐ)いながらとると肖像画が出てきた。青年の姿が描かれたもので、数百年前の日付が入っている。

 やわらかな微笑みを浮かべる肖像画は、少年を(なぐさ)めているようだ。以来少年は、涙を流す代わりに心の中で肖像画に話しかけるようになる。

 組織で学んでいたある日、この人物について師に教えられた。彼の一生を知った少年は、笑顔の裏に胸をしめつけるような哀しみを垣間見る。同時に彼を苦しませた宿命に自分の姿が重なるように感じられた。

 あの寂しげな微笑みは何十年たった今でも、男の脳裏に鮮明に焼きついている。

 師の話によると、肖像画の青年は戦場に(おもむ)いたまま帰ることがなかった。最強の力をもった彼が勝てなかった相手とは、どれほど強大な敵だったのか……。

 青年への淡い憧れが、幼かった男に過酷な宿命にたちむかう勇気と自信をあたえた。いつか彼のようになれる日を夢見てつらい訓練をたえぬき、組織でもトップクラスのハンターへと成長した。

(それが今では、このざまだ)

 どこまで努力を重ねても、人間の力には限界がある。生まれながらの能力者には及ばない。

(あの方さえいてくださったなら――あの方なら確実に、この悲劇にピリオドが打てるのに!)

 少年のころ見ていた肖像画は、なにも語ってくれなかった。

 彼の生死は組織の集めた文献だけでは知る(よし)もない。帰らぬ人となったのか、組織を離れて一匹狼として生きる道を選んだのか、あるいは――。

 それでもいい。遠い昔の物語に祈りをたくすことで、この瞬間、心に広がる哀しみと闘う力が得られるのならば。



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