第十九話 子供の恐怖と少女の夢
(いやっ! だれか助けて。あやちゃんはいい子でいる。明日からは言いつけ通りに早くお家に帰るから……おねがい、連れていかないで!)
取り乱した拍子に、ぽとり、と音をたてて綾子の手からボールが落ちた。
女は恵美の首筋から顔を離し、綾子を振り返る。
闇のように黒い瞳が綾子を捉えた。赤い唇の端から一筋の血が流れ、女の白い襟元を徐々に赤く染める。美しい顔が恵美の血で汚されていた。
鬼は唇の両端を上げ綾子に微笑みかける。綾子を見ているのは、天女の顔をした鬼だ。
白い雪を染める赤い血。白い世界に立つ異形のもの。舞い降りる雪と不安定にゆれる松明の灯りが、白い女性を幻想的に包んだ。
怖いはずだった。恐怖が先にくると思っていたのに、綾子が感じたのは別のものだった。
(きれいだ……)
白い雪の中、白い着物を着た女性。ぽとりぽとりと滴り落ちた血が、真っ白な雪に赤い点を作る。
それはどのくらいの時間だったろう。ほんの数秒、あるいは数分だったかもしれない。綾子は逃げることも忘れ、白い女性に見とれていた。
やがて女が立ち上がり、綾子に手をさしのべる。伸びた爪が鋭いナイフに見えた。
「いやあーっ!」
綾子は思わず悲鳴を上げた。その拍子に金縛りが解けて、綾子は階段を駆け降りる。途中で雪に足を取られ、数段を転げ落ちた。全身に痛みを感じたはずだが、そんな余裕もない。雪の降る中、綾子は何度も転びながら無我夢中で家まで走った。
傷だらけで泥まみれになった綾子が帰宅すると、両親は顔色を変えた。そのまま風呂に入れられ、傷口を丁寧に洗ってもらう。母と湯船に浸かって温まったころ、綾子はやっと現実世界に戻ってきたように感じた。途端に傷が湯に沁みてきた。
「お母さあん、手も足もすっごく痛いっ」
「お風呂から上がったら、絆創膏を貼ってあげるね」
母は遅く帰ったことを叱らず、柔らかい笑顔で綾子を受け止めてくれる。もう二度と親に心配をかけてはいけない。綾子は強く心に誓った。
両親のケアのおかげで、その夜、綾子は神社で見たものをすっかり忘れて、早々と布団に入った。一度眠りについたころ、居間の騒めきで目を覚ました。
母に呼ばれた綾子が目をこすりながら居間に行くと、恵美の両親が待っていた。日が暮れても帰ってこない娘を探し、綾子の家にやってきたのだ。仲良しの綾子なら恵美の行方に心当たりがないかと思ってのことらしい。
「あやちゃん、恵美を見かけなかった?」
「え、恵美ちゃん……?」
(あの鬼に連れて行かれたんだ。どうしよう。帰ったときすぐにお母さんに言えばよかった)
怖くなった綾子はしばらく迷ったが、今日帰宅途中に見たことを大人たちに打ち明けた。
「あやちゃん、そんな話を信じているの? ただのおとぎ話でしょ。そんなことより恵美をどこで見たか教えて」
恵美の母親が怒っているのは、幼い綾子にも理解できる。だが綾子はこの目で見たことしか話せない。
「だから神社で……」
「あや、本当のことを言いなさい!」
綾子は自分の目で見たそのままを話しているのに、大人たちは誰も信じてくれない。
(悔しい。悲しい……あやはウソなんてついていないのにっ)
綾子は心の中でそう叫び、居間を飛び出した。そして布団に潜り込み泣いた。
大人たちは、怪談と現実の区別がつかない子供のたわごとだと、綾子の話を聞いて思ったのだろう。
信じてもらえないのと、恵美がいなくなったこと、どちらが悲しくて涙が流れるのか解らない。泣き続けた綾子は、いつの間にか眠りについた。
翌日は警察や町の消防団、ボランティアたちが、子どもが迷いそうなところを探したり、不審者情報を洗い出したりした。だが努力の甲斐もなく恵美は見つからなかった。
だが綾子だけは知っている。恵美が女の鬼に連れていかれたことを。そして女吸血鬼は恵美を自分の仲間にし、どこか遠いところで暮らしていることを。
このころ、恵美以外にも数名の少女が姿を消した。大人たちの懸命の捜索にもかかわらず、少女たちの行方は解らないまま何年も時は流れる。
事件は思わぬ形で進展する。
町の東側にある山林が切り開かれ、大規模開発が始まった。そこにある廃村の中から、大量の遺骨が発見された。遺留品から、一部は捜索届の出されている少女たちのものだと判明した。古いものから新しいものまで多くある中に、恵美と同時期にいなくなった少女の遺骨も発見された。
この場所は長年遺体を始末するのに使われていると判断された。肝心の犯人については目星も付かないまま、事件は迷宮入りとなった。
不思議なことに、見つかった遺体の中に恵美のものはなかった。
(女吸血鬼は恵美だけを仲間にして、ほかの少女は殺されたんだわ。そして今でも一緒にどこかを旅しているのよ。長い時の流れを越えて……)
多感な年齢のころに色々な本を読み、いつからか綾子はあの日見たことを思い出しては、そのように信じるようになった。
だが——。
綾子が成人式を迎えた日のことだ。中学時代の仲間と同窓会を楽しんでいたとき、母親からの電話で恵美の情報が飛び込んできた。神社の境内にある古井戸から、恵美の白骨死体が発見されたという内容だった。ひとりで遊んでいる途中不慮の事故で落ちたものだと判断され、それ以上の捜査は打ち切られた。
同窓生でも恵美を覚えている子は一握りしかいない。ましてや行方不明になっていることを知るものは皆無だ。恵美の事件があったのは小学校に入学する前だったから、忘れていても無理はない。
(恵美ちゃん……)
その日まで信じていた世界は、ただの空想に過ぎなかった。
綾子の夢の世界は、大人になるとともに終わりを告げた。
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