第十二話 屈辱の兵士
毎日狂うことなく時間は流れ、そしてまた、この近代的な街にも夜が訪れた。
夜とともに姿を現す物たちがいる。いにしえの時代から人々はそれらを多くの名で呼んできた。妖怪、魔物、幽霊、悪魔……呼称に意味はない。すべては闇に棲む魔性の物たちをさす。
ここにもひとり、夜の世界に棲む物がいた。それは毎夜男のもとに顔を見せ、あざけり、誘惑を繰り返す。
飽きることなく、今夜もまた――。
男は自分の座るソファーの後ろに、それの気配を感じた。だがふりむきもせず、目の前のワイングラスを無言でながめる。
頭上でくぐもった笑い声がした。
それは男の肩に腕をまわし、顔を耳元に寄せる。
「おまえがこんなにもわたしに協力してくれるとは、正直思わなかった。どういう心境の変化があったのだ?」
それの問いかけを無視し、男はグラスから視線を外さない。
「でも、今度の器はなかなか手強い。身体をとられてもなお抵抗を続けている。わたしが完全に支配するまでには、まだ時間がかかりそうだ」
ククッと喉の奥で笑い、それは男の正面に立った。
「ただの器などとなめると痛い目にあうぞ。お前にはあれの意識を消滅させる力はない。あれはおまえが考えるほど、たやすくは堕ちるような軟い人間ではないのだから」
男が初めて声を出した。ようやく相手の反応を引き出し、それは満足げに口角を歪ませる。
「そう強がっていられるのも今だけだ。わたしのやることを止めることのできない器は、罪悪感によって心がくだけ、受け入れがたい現実から逃げるために消滅する。抵抗するならばなおのこと、わたしは何度でも繰り返す。少女たちの命はわたしの中で永遠に生き続ける。自分もそのひとりであることを、器の心は悟るであろう」
「どこまでも哀れだな。何度試みたところで、おまえは変化できない存在だというのがまだ解らないのか」
「解らないのはおまえだ。わたしには感じられる。長いときを経て、今度こそ訪れる千載一遇のチャンスが」
それはワイングラスを手にし、テーブルに叩きつけた。派手な音をたてて、グラスが割れる。細く白い指が、大きめの破片を拾った。
「血こそが、わたしの生きる糧……」
それは男の着るガウンの胸元を広げ、手にした破片で皮膚を切り裂いた。邪悪な笑みを浮かべ、ゆっくりと傷口に顔を近づける。にじみだす血をそれの舌がすすった。流れる血を逃すことなく、むさぼる。
男は抵抗もしなければ、積極的に血を与えることもせず、それの好きにさせた。快楽も嫌悪もない。あるのはただひとつ、喪失感だけだ。
それは渇きが満たされると、男の胸元から顔を上げた。真っ赤なルージュで彩られたように唇が赤く染まっている。唇についた血を細い指で拭き取ると、指に残った血を舌でなめた。
「おまえに残された時間はわずかとなった。何の能力もないただの人間よ。出会ったときのような激しさは忘れたか?」
忘れたわけではない。一度覚えた平穏な日々に、温かい優しさに身を任せただけだ。
どれだけ人々を守っても報われなかった男は、あの日生まれて初めて感謝された。その瞬間、男は変わった。
――この女性に二度と悲しい想いをさせない。
自分がそばにいれば、彼女をそれから守り通せる。そう信じて男は仲間たちと袂を分ち、ここに留まった。
だがそれは、叶わぬ願いだった――。
「わたしは、おまえの力強く逞しい腕を忘れたわけではない」
それの声で男は現実に引き戻された。
「愚かにも双子の妹のふりをして、私を誘惑したあのことか」
男の顔が嫌悪に歪む。
あのときの耐えがたい屈辱。たった一度の過ちが脳裏を横切る。彼女は許してくれたが、それは今でも男の背負う十字架でもあった。
それは自分の言葉で頬を紅潮させた。
「罠にかかったことに気づいたとき、おまえたちは後悔と嫌悪に心の隅まで満たされた」
「……まれ」
「その瞬間、強い決意は消えた。愛情なぞ所詮は脆い絆。すれ違うおまえたちを観察するのは、心から楽しめる時間だった」
「黙れっ!」
「人間の愚かさと苦しみは何にも変えがたい甘美なものよ」
「己が楽しみたいだけで、多くの人を手にかけ……」
言葉が途切れる。男の頬をそれの手が包み、唇をふさがれた。
魔性のくちづけは、血の味がした。舌を巧みに動かして誘惑してくる。
いつまで耐え続けねばならない? あのとき愛しい人の笑顔が消え、背を向けて部屋を飛び出した。また同じことを繰り返すのか。何度も何度も……生きたまま終わりのない無間地獄に堕とされそうだ……。
だが男が堕ちる寸前、それは唇を離す。
「そうやって耐えるところは、昔とかわらないな」
「何がしたいのだ?」
「おまえのような堕ちてしまった人間に、何ができる? わたしに翻弄されながら、かたや妹に愛を誓った男に、与えるものがあると思っているのか。滑稽なことよ」
男の肩がふるえた。
「……せ」
「なんだと?」
「今すぐ、わたしを殺せ!」
それの顔から、表情が消えた。
「できない相談だな」
そういって、男から身を離す。
「おまえはわたしが愛した男。この手で殺すつもりはない。いずれそのときが来たら、おまえを夜の世界につれていこう」
「変化は不可能だとまだ解らないのか?」
「解っていないのはお前の方だ」
邪悪な笑みとともに言葉を残すと、それの意識は突然闇に沈んだ。
器となった身体は、糸の切れたマリオネットのように床に崩れ落ちた。
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