第十話 冷たさと温もりの中で
夕刻になって降りはじめた雨が窓ガラスにたたきつけられ、激しい音を立てている。朝の好天がうそのように、事件の起きたころから、空は黒い雲に覆われていた。
舞台上で倒れた江莉を抱きあげて、聖夜は仲間とともに保健室に足を運んだ。
雨のため外の気温は下がっているが、室内は暖房のおかげで寒くない。だが事件の余韻を引きずっているためか、いくら温度を上げても暖かさは感じられなかった。
「香取さん……大丈夫かな。責任感が強いといっても、わざわざ舞台に出なくてもよかったのに」
加織の言葉は聖夜の考えをそのまま代弁している。
興味本位で近づいてはいけないと、誰もが判断できる状況だった。その証拠に、聖夜と一部の教師以外、現場に駆けつけたものはいなかった。
(それなのになぜ……)
責任感の強さ、自分の置かれた立場だけで、ここまでの行動ができるのか。
逃げる者と対照的に、遠巻きに録画を始める野次馬は多くいたが、近寄るものはいなかった。あの場所に漂う邪気は、聖夜でなくとも気づいたはずだ。
(そこまで責任感の強い少女なのか)
ベッドで眠っている江莉の顔色はあまり良くない。
遺体――――喉元の頚動脈を鋭い刃物のようなもので切られ、血を抜き取られた友人――――を見れば、大きな心の傷を負ったはずだ。この状態で江莉をひとりにするのは無責任に思える。
目覚めたときに気心の知れた人物がひとりもいない。そんな状況にか弱い少女を置きたくはないと思いは、ここにいるみんなの共通意識だ。
いろいろな考えが頭を横切り、聖夜たちはこのあとの行動を決めかねていた。だれも口を開かない。かといって席を立って帰ろうともしない。
身体が温まるようにと養護教諭がココアを入れてくれたが、口をつけられないまま、さめてしまった。
そのとき、沈黙を破るように保健室のドアが開いた。
「あと十分もしたら、江莉のお爺さまが迎えにきてくださるって」
そう言いながら入ってきたのは澪だ。大きくため息をついたあとで、スマートフォンを学生バッグに入れる。
上品な育ちに加えて成績優秀。それにも関わらず、だれにでも分け隔てなく接する江莉は、生徒の間でもファンが多い。そんな江莉が倒れたという話は、楽園祭中止の連絡とともに校内に一斉に広がった。そして次々と見舞い客がやってきた。
澪はひとりで彼女たちに対応すべく、ずっと廊下に出ていた。捌くだけで相当神経をすり減らしたようだ。大方の見舞客が帰ったあとで、ようやく江莉の自宅に電話したとのことだった。
眠り続ける江莉を見て、
「まだ起きないのね」
と澪が眉を顰めながら呟くように言うと、加織が無言でうなずいた。
「あんな現場を間近に見ちゃったんだぜ。遠くで見たおれだって、思い出しただけで気分が悪くなるよ。寝込むのも無理ないさ」
祐司もやっと口を開く。
「楽園祭の準備や舞台の演出、それに突然の主役の不在でしょ。無理しすぎて疲れもたまっていたのかもね。舞台裏で会ったときの香取さん、今思えば顔色がよくなかったよ」
加織が思い出したようにつけくわえた。
「それよりも聖夜、真っ先にステージに上がって、死体を目の前にしたっていうのに。よく平気でいられるな。たいした度胸だよ、まったく」
「あの場で怯えている演劇部員を助けたかっただけだよ。あと先省みず動いたせいで、犯罪現場を荒らす可能性まで思い至らなかった」
「でもパニックを起こした生徒がいた時点で、一緒だと思うな。あたしとしては、聖夜くんはドラマの刑事か探偵みたいでかっこ……」
と言いかけ、自分のことばの不謹慎さに気づき、加織は肩をすぼめてうつむいた。
(ぼくが舞台に上がったのは、そこを支配していた邪気を確認したかったからだ)
人間でありながらヴァンパイアの特性を持ってしまった自分を、一番恐れているのは聖夜だ。それなのに邪気に惹かれるように現場に近づいた。
去年の事件以後、血の渇きを覚えることはなかった。
一歩間違えると、悪魔が目覚めるかもしれない。人間を『食糧』としてとらえた経験がない聖夜にとって、命は今でも神聖なものであり、人の死は畏怖すべきものであることに変わりはない。
それだけに、自分のとった行動が聖夜自身にも意外だった。
(あの子は本当に彼らの犠牲者だったのだろうか)
彼らの残す気は本能で読み取れる。だから少しでも危ういと感じる場所を避け、辿り着いたのが今の生活だ。
しかし今日感じたものは、ヴァンパイアを思わせると同時に、異質のものがまじっているように思えてならない。
(ヴァンパイアであり、異質な存在……? いや、まさかそんな……)
その瞬間聖夜が連想したのは、自分と同じものだ。
仲間がいるかもしれない。だがその人物が犯人だとしたら、聖夜も同じことをするのだろうか。
心の中に小さな綻びが生まれ、動悸が激しくなる。このまま何もなければ故郷に帰ろうという考えは甘いのか。
「あーあ、こんなことになったんじゃ、楽園祭は中止よね。残念。やっと実現した聖夜くんとのデートだったのに」
加織のぼやきで、聖夜の考えが中断する。偶然とはいえ、不安から気を逸らせてくれたことに深く感謝した。
「だったらさあ、今から寮まで送ってもらえよ。それくらいならいいだろ、聖夜」
「ぼくはいいけど、香取さんをおいて帰るには……」
「それならご心配なく。江莉のお爺さまが来るまで、あたしが残っています」
「OK。そして澪はおれが送る。これで決まりだ」
「じゃああたし、先に帰らせてもらうね」
加織は申し訳なさそうに頭を下げる。聖夜も軽く会釈をし、保健室の扉を開けた。
☆ ☆ ☆
雨の影響で、今日は夜の訪れが早い。それにこんな事件の後だ。祐司に言われなくとも、聖夜は加織を送るつもりだった。
保健室を出た聖夜は、廊下の窓越しに外のようすをながめる。傘がなくてはずぶ濡れだが、タクシーを利用するには寮も下宿も距離が近すぎた。
「心配ないよ。これでもあたし、用意がいいんだ。教室のロッカーに置き傘があるから取ってくるね。聖夜くんは靴箱のところで待ってて」
「だめだよ、薄暗い校舎なのにひとりで行動したら」
あっけらかんと教室に向かう加織を、聖夜はあわてて追いかけた。講堂や正門周りでは警察が現場検証をしているが、校舎には彼らの姿はない。
加織は階段を駆け上り、三階にある自分の教室に行った。聖夜も一緒に教室に入る。加織はロッカーから傘を取り出した。
「折りたたみじゃないから、ふたりで入れるでしょ?」
聖夜が加織に目をやると、やや頬を赤らめている。
ふたり揃って校舎の昇降口で戻り、靴を履き替えていると、外に車のヘッドライトが見えた。ほどなくしてエンジン音が止まり、ライトが消える。運転手が先におり、後部座席のドアを開けた。
降りてきたのは、白髪で顎髭を立派に生やした老紳士だ。年齢の割には精悍な印象を与える。おそらく江莉の祖父で、連絡を貰ってすぐ来たのだろう。運転手に差しかけられた傘の中に入り、昇降口にある受付に向かう。
「すごい。運転手つきのベンツだ。さすが香取さん、お嬢さまって感じ」
加織が目を丸くして、受付のそばに立つ老紳士を見つめた。
「ぼくには車どころか、傘もないけどね」
「一本しかないから、いいのよ。堂々と一緒に入れるんだもん」
加織は目を輝かせて答えた。さっきまでの重々しい雰囲気は、もう残っていない。そのことに安心して、聖夜は何気なく老紳士に顔を向けていた。
「聖夜くん、早く帰ろ」
加織に引っぱられるようにして聖夜は歩き出す。江莉の祖父とすれ違いざまに、一瞬目があった。軽く会釈して通り過ぎようとしたそのとき。
唐突に、老紳士が聖夜の顔を凝視したような気がした。
「だんなさま、いかがなされました?」
受付を済ませた運転手が不思議そうに問いかけた。つられて聖夜は老紳士を見返す。
視線がまともにぶつかった。
老紳士は目を見開き、聖夜の顔をじっと見つめる。唇が何か言いたげに動きかけた。だが声にはならない。
「あの、なにか?」
先に聖夜が声をかけた。
「いや、なんでもない、失礼」
老紳士はさっと踵を返し、廊下の奥にある保健室にむかう。運転手は聖夜たちに軽く会釈をし、あわてて主人を追いかけた。
「聖夜くん、今の人と知り合い?」
「いや、記憶にないけど……」
だが相手は聖夜をよく知っているようだった。何気なく声をかけたとたん、まるで聖夜の視線を受け止められないかのように、顔を背けた。
聖夜は去っていく老紳士の背中を追いかける。何かが引っかかったが思い当たる理由がない。
「聖夜くんってばー。何してんの?」
加織の声が聖夜の思考をとめた。
傘を差すと、加織は当然のように聖夜と腕を組んでくる。
驚いた聖夜だが、それを素直に受け入れることにした。人ひとり亡くなっている状況だけに、不安な気持ちを抑えたいのだろう。
加織と被害者は面識がないそうだが、あの現場を見てしまった以上、仕方のないことだ。
小さな傘が役に立たないような、大雨が降っていた。コートを着ていない身体はすぐに凍えてしまいそうなくらい、気温が下がっている。
聖夜は少し考えたあとで、秋物のジャケットを脱いで加織の肩にかけた。そして加織の肩に腕をまわし、そっと身体を寄せる。驚いて加織が見上げる。
「あ、いや。寒いかと思って……それに濡れると風邪をひくかもしれないし。でも勝手にこんなことをすべきじゃなかったね……ごめん」
「いいよ、謝らなくて」
頬をわずかに赤らめて、加織がうつむく。ためらいがちに、身体をあずけてきた。
温かくて柔らかい肌の感覚が、衣服をとおして聖夜に伝わる。凍えそうな身体を温めるつもりが、逆に温められたような気になった。
雨の中、言葉を交わすことなく、優しい温もりを感じながら聖夜と加織は歩いていた。
そんなふたりのようすを、じっと見つめる視線に気づくことなく。
最後までお読みいたきありがとうございました。
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