銀色の箱
*
群れる人間の気持ちが分からない。
彼らは孤独を恐れているのだろうか。それとも、仲間と過ごす楽しい時間こそが人生であると、強く信じているのだろうか。
跡部摩莉瑠は神保町の街を歩きながら、すれ違う若者のグループを眺めた。自分と同い年くらい、大学生だろうか。
摩莉瑠は鮮やかなブルーのハイライトを入れたショートヘアを指先で撫でる。黒のタンクトップの上に、大きめのストライプシャツを着ている。ゆったりとしたカーゴパンツの大きなポケットは、彼女の鞄代わりだ。
「ひとりのほうが、なにかと気楽じゃん?」
そう呟いて、狭い路地から、すずらん通りに出た。
平日の午後。ランチタイムの喧騒は過ぎ去り、石畳の上を行き交う人々の間には、どこかゆったりとした時間が流れている。
摩莉瑠は、とある雑居ビルの前で立ち止まった。二メートルにも満たない間口の奥にある古びたエレベーターに乗り込み、『無為不言』と書かれた三階のボタンを押す。
開いたドアを出ると、そこはもう店の中だ。
壁際に本棚が立ち並び、雑多な本の背表紙が並んでいる。本棚の間にはスタッキングできる正方形の棚があり、そこに飾られているのは大小様々な雑貨たちだ。
「おつかれっす」
細長いフロアの奥のほうに声をかけるが、返事がない。
「マジか……。店ほっぽり出してどこ行った店長」
摩莉瑠は右手首の古い腕時計に目をやった。まぁ、摩莉瑠が出勤することが分かっていたから、少し早めに出たのかもしれない。幸い、店内に客の姿はない。
「にしたって不用心だし、ちょっとくらい待てよな」
木製カウンターのなかに滑り込み、手を洗うと素早くデニムエプロンを身に着けた。
この店は店長が目利きした本や雑貨を扱い、カフェカウンターで珈琲やアルコールも提供しているのだ。
流しのなかには、使い終わった一組のカップとソーサーがある。カップの縁に、淡い色のリップ跡が見えた。
「まーた八重さん絡みだな、きっと」
八重さんというのは、常連客だ。シングル子持ち、妙齢の美女。職場が近くにあるらしく、よく珈琲を飲みに来てくれる。そして、店長は彼女に惚れている。
普段はどこか飄々としている店長だが、八重さんと話すときだけは子どものように無邪気で、本当に嬉しそうなのだ。
「幸せなものなのかね。人を好きになるってのは」
摩莉瑠が呟いたとき、入り口のエレベーターが開き、誰かが入ってきた。店長かな、とそちらを見やる。しかし、訪れたのは老齢の男性客だった。
今の呟きを聞かれてしまったかもしれない。摩莉瑠は内心慌てながら、いらっしゃいませ、と何食わぬ顔で挨拶をした。
「やぁ、なかなか素敵な店だ」
真っ白な髪を頭の側面に少し残す男性は相当な年齢に見えるが、姿勢はよく、声にも張りがある。店内をゆっくりと見回しながら摩莉瑠の近くまで来ると、皺の刻まれた顔でにこりと笑った。
「神保町に数ある古書店とは、また趣が違う。新しい風を感じる」
「そ、そうですか。アリガトゴザマス」
どうやら店を褒められたようなので、店長の代わりに慣れない礼を口にする。そんな摩莉瑠の顔を、男性はまじまじと見ている。
「お嬢さん、この街には詳しいのか?」
「へ? ……あ、いや。ただのバイトなんで」
口にしてから、それは関係ないだろう、と気づく。それを察したように、男性が加えて訊いてきた。
「美味い蕎麦が食べたくてね。良い店を知らんか?」
「ふふっ。わざわざこんな入りにくい店に来て蕎麦のこと訊くなんて、面白い」
「おかしいかね?」
「いえ。率直で良いな、って」
ちょっと偉そうだったかなぁ、と反芻しながら、摩莉瑠はスマホを取り出した。ふと思いついてそれを置くと、カウンターに置いてある店のタブレットを引き寄せ、そちらを操作する。
「ウチすごい偏食だけど、蕎麦はイケるんで。……こことかどうです? 駅から離れた場所でひっそりやってるけど、本格的な生粉打ちで、二色盛りがお勧め」
眼鏡をずらして両目を細める男性のために、摩莉瑠は二本の指で表示を拡大した。
「うむ、美味そうだ。ここに行ってみよう。地図を書いてもらえまいか?」
ということは、男性はスマホを持っていない、ということか。今どき珍しい。摩莉瑠はカウンター下の棚からコピー用紙を一枚引き抜くと、タブレットに表示させた地図を簡略化して手早く描き写した。
地図を手渡された男性が、満足げにうなずく。
「……うむ。分かりやすい。ありがとう。行ってみるとしよう」
この人、本当に蕎麦のことを訊きに来ただけなんだ、と摩莉瑠が面白くなっていると、男性が顔を上げてこちらを見た。
「お嬢さん。君はとても親切だ。不躾な質問に答えてくれた。老眼の爺のために、大きな画面を見せてくれた。丁寧に地図も描いてくれた。心根が綺麗な人間でなければ、なかなかそうはいかん」
いきなり褒められて、摩莉瑠は戸惑った。自己認識とは真逆の内容だったからだ。
「礼の代わりに、これをもらってくれ」
男性はそう言うと、ハンドバックから小さな箱を取り出し、カウンターに置いた。一辺が十センチほどの正立方体。継ぎ目がなく、銀色の金属製だ。箱の上部には、四桁の数字カウンターがある。暗証番号でロックが解除できるのだろうか。
「え? いや、なんか高そうだし、もらうわけには……」
「では、言い方を変えよう。実験に協力して欲しい」
「実験?」
予想もしなかった言葉が飛び出して、摩莉瑠は思わず聞き返していた。
「Six Degrees of Separation。『六次の隔たり』の検証だ。この世のあらゆる物事、人は六ステップ以内で繋がっている、という仮説のことだよ」
「おお……、なんか……、聞いたことあるかも」
「解錠番号は、0331。ただし、その箱ではない。もうひとつの箱だ」
摩莉瑠は番号を手元にメモすると、男性を見上げた。
「もうひとつ、ってことは」
「すでに全く別の場所で、別の人間に託してある。今ここにある箱の解錠番号を知っているのは、その人間だけだ」
ようやく事態が飲み込めてきた。なんの前触れもなく訪れた非日常の気配を、摩莉瑠は冷静に受け止める。
「もし出会えたら、両方の箱が開くってこと?」
「お嬢さん。これから出会う人ごとに、その箱のことを話してみてくれ。本当にふたつが繋がるのかどうか、楽しみにしているよ」
男性はそれだけ言うと、摩莉瑠が描いた地図を握りしめて、カウンターを離れた。
「もし繋がったとして……、あなたは分かるんですか?」
連絡先も、名前すら聞いていないのだ。
摩莉瑠の疑問を背中で受け止めて、男性がくるりと振り向いた。
「『六次の隔たり』が証明されたら、我々は必ずまた会える。そのとき、二色盛りの感想を伝えるとしよう」
エレベーターのドアが閉まった。窓に駆け寄って見下ろせば、すずらん通りを去っていく男性の後ろ姿が見えるかもしれないが、摩莉瑠は動かなかった。
やがて、カウンターのなかに置いたスツールにすとんと腰を下ろす。
「六ステップねぇ。いや、厳しいんじゃないかなぁ」
残された箱を、まじまじと観察する。試しに数字カウンターを0331に合わせてみたが、箱はびくともしなかった。極端に重いわけでも、軽いわけでもない。振ってみても音がしない。
「空っぽなんていうオチ、さすがにないよね」
頬杖をついて、カウンターに置いた箱を眺める。表面はつや消し加工が施されており、八つの角は丸みを帯びている。これがあの老人のハンドバックから出てきたことが、なんだか信じられない。
夢でも見ているのだろうか。摩莉瑠は箱を指先でちょんと押した。
そのときエレベータが開き、誰かが店に入ってきた。




