7話 恋
帝都コンスタンティノープル。12歳になったベリサリウスは父とともに農園でとれたブドウを使ったワインを売りに来ていた。巨大な宮殿と闘技場、賑やかな通り。活気溢れる東ヨーロッパ世界の中心にはありとあらゆる娯楽があった。熊使いもその中の一つで、その名の通り熊を操って様々な技を披露していた。ベリサリウスにとって熊は生きているうちに操るより射殺して肉を食うなり毛皮を剥ぐなりして利用するものだったので、
「熊にもこんな使い方があるのか」
と感心しながら見ていたのだった。ふと舞台の脇に目をそらすと彼は刹那、言葉を失った。その場の空気が止まったように感じられた。そこには汚れたみすぼらしい格好と対照的に、色白で目鼻立ちの整った美しい少女がいた。これが彼にとって初めての恋であった。
公演が終わるやいなや、ベリサリウスは走り出した。父に夜までには宿に戻っておけよと言われていたがそれまでに「彼女と何か話したい、何でもいいから何かを残さなければ後悔する」という気持ちが彼を動かした。狩りでは味わえない胸の高鳴りがあった。
少女はそこにいた。急に駆け寄ってきた観客の一人を訝しげに見つめながら、
「何かご用でしょうか?」
と尋ねた。
「えーっと、あの......」
こんな経験はおろかこんな思いを抱いたことすらなかった彼にとってその先の言葉は簡単に浮かぶものではない。
「ワインを、ワインを売りに都に来たんです。それで、それで、ついでに街を見物しようと思って、あなたがたの熊使いの芸を見ていたんですが、あなたに、その......」
「私にどうかしたんですか?私は裏方の仕事をしていただけですけど......」
実はこの少女は気づいていた。この客が自分に気があることくらいは。年下であろう彼の健気な姿にいたずらっぽくあえてそっけない態度をとっていたのだ。
「あ、あなたを好きになりました!」
思っていた以上にかなり真っ直ぐな言葉が返ってきて少女は驚いた。少女もこの男が気になった。
「あなた、お名前は?」
「僕はベリサリウス。君は?」
「私はテオドラ。あなたって変な人ね」
話してみると、5つ違いであることがわかり、2人はすぐに打ち解けた。ベリサリウスはテオドラの案内で帝都を歩き回った。テオドラはベリサリウスを実の弟のように可愛がった。ベリサリウスにとって戦車競走をはじめ、そこで見た見世物の数々は、田舎にはない珍しいものばかりだった。こんな場所に住むテオドラを羨ましく思った。二人で手を繋いで街を歩きながらベリサリウスはずーっとテオドラの横顔に見惚れていた。
するとおもむろに、テオドラはこう言った。
「私ね、いつかお金持ちの人と結婚するのが夢なんだ。もう少ししたら私も踊り子として舞台に立つことになってるんだけど、私は好きで踊り子をやるわけじゃない。舞台で目立ってお金持ちの奥さんになりたいからやるの。そうしたら私の子供はこんなきつい仕事しなくて済むでしょ、きっと」
ベリサリウスは言葉に詰まった。田舎で自分が好きに生きている一方で都市に自分が生きたいように生きられない人がいて、それがいま目の前にいる自分の好きな人であるのが、苦しかった。
日も落ちる頃、宿まで送ってくれた彼女はこう言った。
「ねえ、ベリサリウス、偉くなって私をいつか迎えに来て。私、待ってるから」
彼女はそう言って人混みの中に消えてしまった。