1話 若鳥の羽ばたき(1)
「ポンペイウス将軍が繰り返していた侵攻戦に対するしっぺ返しを、なんでまた僕が受ける羽目になるのかね。それもヘルゲモネス官房長官が連れてきたこのたった2万5千人で。相手は4万だぞ」
ベリサリウスは現状にタラタラと文句を垂れた。それでもプロコピオスはベリサリウスがこの状況に対して怒り心頭というほどではなく、むしろ少しばかり目の前に迫るペルシア軍との戦いを楽しみにしているのだろうと思った。
「そう言いながらも、将軍はもう準備を終えられておいででしょう?本当はそれを早く試されたいのでは?」
「まあね、どれぐらい上手くいくかは気になるんだが、実のところ準備がまだ終わってないんだ。新兵くんたちが頑張ってくれているのは分かるけど、分かるけれども彼らはベテランの工兵たちに比べると、まあ穴掘りが遅くてね。もう少し早く終わる計算だったからちょっとだけ不安だね」
そんな会話をしていた日から1週間後、東ローマ帝国軍はペルシア軍とダラ要塞で相対していた。
この戦争はペルシアと東ローマ両国の王位継承問題に端を発する。50歳を迎えたペルシアの王カワード1世が、自らのお気に入りで、その優秀さで有名であった息子のホスロー1世を東ローマ皇帝の庇護の元に置くべく時の東ローマ帝国皇帝ユスティヌス1世に養子縁組を打診したのだ。これに対しローマ側は一旦はその提案をペルシアを支配下に置く恰好の機会と考えそれを飲もうとしたが、財務官プロクルスが、
「陛下、ペルシアから養子に入る王子はいずれ財産相続を受ける権利を主張し、ゆくゆくはこの国を要求するでしょう。そのような事を可能にする機会も口実も奴らに与えてはなりません」
と皇帝に諫言をしたため、結局東ローマがこの話を突っぱねる形となった。これに対しカワード1世は、長男ではないため、貴族からいつ謀殺されるやもしれないホスローの身を案じ、提案を突っぱねた東ローマを恨んだ。これに加え、両国間の国境付近での小競り合いの頻発や東ローマ帝国皇帝がユスティヌス1世から甥のユスティニアヌス1世に代替わりし、東部防衛線を強化したことにより事態がますます悪化し現状ー即ちペルシア軍によるダラ襲撃に至っているのである。
現在ダラ要塞の前には城壁に対して垂直な方向に数本の塹壕が十数メートル間隔で並んでいた。それら縦の塹壕の根元には城壁と少し距離を置き城壁と並行して塹壕が掘られ両翼の塹壕が前に突き出ていた。塹壕と城壁の間に東ローマ軍は布陣し、両翼を騎兵、中央を歩兵とする鶴翼の陣を敷いた。左右の前に突き出した塹壕には橋が渡され、騎兵が出撃できるようになっていた。
先刻ベリサリウスの「勝つぞ」という一言とともに始まったこの戦いは、早くも膠着状態を呈した。実は戦力差一万五千はほとんど歩兵戦力の差で、要塞の前に掘られた塹壕によってペルシアの歩兵部隊が分断、孤立させられ柔軟に人員配置を変えられなくなったがために東ローマにとっては恰好の各個撃破の的となってしまった。ペルシア軍の総司令官ペロゼスはこれを受けて中央突破を諦めて歩兵を退かせ、兵力的には均衡していた騎兵同士の押し合いを選んだ。
「左翼のバレスマナス、右翼のピテュアクセスに伝令、『騎兵部隊は早急に敵騎兵を殲滅、前進されたし』」
苛立たしげにペロゼスはそう言った。
「敵はなかなかやるようだが、あれほど要塞の前に見え見えの仕掛けを作っては、誰も歩兵で中央突破など考えまい。両翼がもっと押し込めば中央を挟撃してすぐに終わる。風呂の準備くらいはしておいてもらわねば困るな」
ペロゼスはそう言うとぎっと眼前の要塞を睨みつけた。
「「風呂の準備くらいしておけ』とでも悔しさを紛らわすために言ってるだろうね、横柄な敵さんは。やる前から『明日そちらの城内に入るつもりなので自分の悦楽のために風呂を準備しておくように』なんて手紙を送りつけやがって」
「ベリサリウス将軍、左右の敵の押し込みが激しくなっていますが、どうなさいますか?」
プロコピオスがベリサリウスに尋ねると
「でも拮抗してるんだろ。そこはそれほど問題ない。応戦しつつ、最終防衛線の手前までゆっくりと後退せよと伝えてくれ。日が落ちるまで持ち堪えろと。ヘルリ族の遊撃隊はまだ待機だ」
「そうそう、あと城塞内の新兵たちには戦闘態勢のままの休憩を許可する、援護射撃と穴掘りをよくやったと伝えておいてくれ」
こうして会戦1日目は終了した。
夜、ベリサリウスは使者を敵に送り、和平を持ちかけた。
「ベリサリウス将軍からペルシア軍総司令官ペロゼス様へこれを届けるようにと言う命を受け参りました」
そう言うとベリサリウスからの使者は書状をペロゼスの部下に渡した。
「貴殿の勇戦には敬意を表し、我々はこれ以上の戦闘継続による双方の損失を鑑みて、ここに和平を提案する。和平を受け入れていただけるならばそちらの陣へ私が向かい協議をさせていただきたく思う。賢明な回答を期待する」
ペロゼスは鼻で笑った。それに続けて
「貴様らの将はとんだ腰抜けであるようだ。そのような腰抜けと話すことなど持ち合わせん。明日貴様らの城は落ち火の海となるであろう」
と言い、使者に今日殺したローマ兵の首を持たせて帰らせた。
「やはり大したことはないようだ。何も知らぬ若造め。明日私が直々にヤツの首を飛ばしてやろう」
ペロゼスがそう言うと周りの将校たちもその言葉に勢いづき、ペルシア軍本陣には余裕の雰囲気が漂った。
ベリサリウスは使者からの報告を聞くと
「やはりか。予想通りだね」
「そのようですね、滑稽です」
「まだ勝ってないから、僕はそこまで思わないけど、にしてもここまで予想通りなのはな」
と言い、お互いに笑みを浮かべた。
このとき、ベリサリウスとプロコピオスの二人だけは現状を冷静に受け止めていたが、それ以外の東ローマ兵は自分たちの将に対して半信半疑なままだった。戦線は膠着していて大勝ちしているわけでも大負けしているわけでもないし、ベリサリウスがしばしばうっすらと浮かべる笑みが、何を意味するのかさっぱりわからなかった。




