お近づきになります
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前期テスト対策という口実で、レンヴィルドをテスト勉強に誘った。
二人きりになるわけにはいかないので、今回は学習室の中までカディオがついてくる。
王立騎士団の中でも近衛騎士団に所属している彼ならば信頼は篤い。計算通りだ。
フォルセと初めて学習室を利用した時、この作戦を思い付いたのだった。そこそこ手狭な空間は、距離を縮めるには打ってつけだ。
前期テストの教科は全部で五項目。
数学と古代レスティリア語、政治経済学、社会学、世界史のみ。中期や後期になるとさらに八教科増えるらしいので、確かにレンヴィルドが言うように前期テストはまだ易しいようだ。
「わたくしは社会学から始めようかしら。レンヴィルド様はいかがなさいます?」
筆記具や問題集を用意しながら問うと、彼は教科書だけでなく分厚い書類の山を持ち出した。
「私は政治経済学を。すぐに変化していくものだから、常に動向を把握しておかなければね」
「レンヴィルド様。おそれながら、政治経済のテストには教科書に書いてあることのみが出題されると思いますわよ。現在の政治経済、それはただのご政務と申します」
「それを言うならあなたこそ、本当に勉強をする気があるのかな?」
王弟としての公務を始めようとしているレンヴィルドに冷ややかな視線を送るも、彼は涼しい顔だ。それどころか下心があることをまるきり見透かされているようで、こちらが黙り込む羽目になった。
三十分ほど勉強を続けたところで、レンヴィルドはおもむろに席を立った。
「参考にできる本があるか、図書館で探してくるよ。あぁ、護衛はイーライに任せるから、カディオはここにいていい。すぐに戻ってくるから」
付き従おうとするカディオを制し、彼は廊下に立つ護衛に声をかけた。
去り際、さりげない一瞥を送られる。的確に意味を汲み取ったローザリアは、僅かに頷いて返した。
友人が作ってくれた好機を逃しはしない。
見送りを終えると、カディオに向かってにっこりと微笑んだ。
「カディオ様、よろしければ少し休憩にいたしません? わたくし、お菓子を用意してきましたの」
少々淑女らしくないが、すかさず隣の椅子を引いて誘導する。
カディオは鮮やかな赤毛を困ったように掻いた。
「し、しかし、俺は勤務中ですので」
「少しの間休んでいても構わないという、殿下からのご配慮だと思いますよ」
「ですがローザリア様もまだ、勉強を始めて間もないのでは……」
「全く問題ありませんわ」
有無を言わさず取り出したのは、街で流行っているという焼き菓子だ。手作りも得意だが、出だしから積極的に行きすぎて引かれても困る。
彼が知りたがっていた最新の流行を仕入れたのも、あわよくば二人きりで出かけたいという目論みがあったからだ。
戸惑っていたカディオだったが、恐る恐るといった様子でローザリアの隣に腰を落ち着ける。
生菓子だと勉強の合間に食べづらいので、クッキーやマカロン、バウムクーヘンを用意していた。残念ながら紅茶はないが、もう少し親しくなれば振る舞う機会もあるだろうか。
ローザリアが早速手を付けると、彼もおずおずと指を伸ばす。カディオはストロベリージャムをたっぷり挟んだクッキーが気に入ったようで、何枚も連続で食べていた。
「甘いものがお好きなんですね」
あのクッキーは甘党のローザリアが糖分補給に食べるもので、痺れるような甘さが特徴だ。男性どころか女性にも苦手とする者が多い。
共通点を見付けられて喜んでいると、彼は五枚目に伸ばしかけていた手を下ろした。
「申し訳ありません。いかつい男がこんな、気味が悪いですよね」
苦い笑みを唇に載せるカディオに、ローザリアは首を傾げた。
「なぜですか? 人の好みに、正しいも間違いもありませんわ」
ほとんどの人が食べたがらないジャムサンドクッキーを、おいしいと言ってくれた。その相手がカディオで、むしろ嬉しいのに。
なぜか引け目を感じている様子の彼に体を近付け、ローザリアはそっと耳打ちをした。
「――それを言いましたらわたくしなど、実は蛇が好きなのですよ」
「蛇、ですか?」
「はい。秘密ですよ?」
意表を衝かれたからか、目を瞬かせるカディオは距離の近さが気にならないようだ。ローザリアはうっすらとほくそ笑む。
「わたくしの侍女が苦手ですし、毒のあるものもおりますから、なかなか触れ合う機会はないのですけれど。庭で見つけた時は、せめてとひたすら見つめることにしています」
「見つめて、楽しいのですか?」
「えぇ、この上なく。鱗の模様やしっとりとした艶、黒々としたつぶらな瞳。蛇行する動きすら、わたくしには愛らしく思えます」
蛙も可愛いけれど、どちらかと言うと爬虫類が好きだ。蛇愛をこんこんと語り、呆然としているカディオにいたずらっぽく小首を傾げた。
「ね? 人の嗜好なんて、不思議なものですわね」
ローザリアからすれば些細な秘密の一つに過ぎなかったけれど、彼の緊張を解くには十分だった。
鋭く引き締まった表情が、ほうと緩む。
気を張っていない彼は、実年齢より少し幼く見えた。金色の美しい瞳が、ようやく真っ直ぐにローザリアを映す。
「実は、その……数か月前、記憶喪失のようなものになっていて。任務に支障はないのですが、以前の自分の言動や思考、好きなものや嫌いなものさえ、忘れてしまったんです」
「まぁ、そうだったんですの……」
驚いて見せつつも、内心抱いていた疑問が氷解していくようだった。
元々カディオは将来有望な近衛騎士だが、女性との華やかな噂を社交界でばら蒔いてきた遊び人だ。それが数ヵ月前からピタリと止んだと聞いた時には、さすがに少々不思議だった。
もしやどこかに本命の女ができたのかと疑っていたが、蓋を開けてみれば記憶喪失とは。予想の遥か斜め上だった。
カディオはまるで苦悩を抱え込むように、金色の瞳をぐっと細めた。
「俺が、甘いものを好きだと言うのは間違っていないか。人を傷付けることを、恐ろしいと感じるのはおかしいのか。他人から見て以前の俺との違和感はないか、常に考えている内に……自分がどんな人間なのか、本当にここにいるのか、どんどん分からなくなってしまって」
今まで誰かに相談することもできなかったのか、彼は堰を切ったように胸の内を吐露する。
たった一枚のジャムサンドクッキーに引け目を感じるほど、カディオは追い詰められていた。
たかがクッキーでも彼にとっては自我に関わることだ。蛇の話など持ち出したりして、ローザリアは自身の浅薄を恥じた。
「そのような事情があるなどと知らずに、小娘が偉そうなことを言って申し訳ございませんでした」
頭を下げようとすると、彼は恐縮しきった様子で押し止めた。
「いいえ。むしろありがとうございます、ローザリア様。あなたのおかげで、目の前を覆っていたもやが、晴れたような気分なんです」
「そんな、わたくしなど……」
どうやら優しいカディオには、好印象に映ったようだった。ここが攻め時ならば、大胆に打って出てみてもいいかもしれない。
思いきって武骨な手にそっと触れると、彼を控えめに覗き込んだ。
「……ずっと、お辛かったでしょうね。ですが、どう変わろうとあなたはあなたですわ」
彼の心を打つような言葉を、意図的に選んだ。
計算高いと誰に罵られようが関係ない。カディオを手に入れると決めているのだから。
彼は思惑通り、呆然と目を見開いた。
そして嬉しそうに、ゆっくりと顔中に笑みを広げていく。無邪気に、青空のように鮮やかに。
直撃を受けたローザリアは、身体中がカッと熱くなるのを感じた。彼の髪や瞳の色のせいか、まるで炎の側にでもいるみたいだ。なのに沸き上がる喜びの、何と甘いことか。
じわじわと胸の内を満たしていく温かな感情に、いつの間にかローザリアも笑みを浮かべていた。
青空の笑顔をいつまでも隣で見ていたい。彼を幸せにするのは、やはり自分でなくては。
決意を新たに、けれど表面上は穏やかに微笑み合っていると、レンヴィルドが帰ってきた。
カディオはすぐに立ち上がり、急いで所定の位置へと戻る。
「……少しは話せたかな?」
レンヴィルドが、クッキーに手を伸ばすついでのように小声で問いかける。
ローザリアは視線だけで笑みを返した。
「せっかくのお心遣いでしたのに、残念ながらこの作戦は失敗ですわ、殿下。落とすはずが、わたくしの方がより深く嵌まってしまいましたもの」
ジャムサンドクッキーをかじったレンヴィルドが珍しく顔をしかめたのは、口に広がる甘さのせいか、糖度の高いのろけのせいか。
「これは、クラクラするね……」
頭痛を堪えるようにしながら呟く友人に、ローザリアは忍び笑いを漏らした。