月夜にさらけ出す
真っ暗な中空に、細い三日月が浮かんでいる。
春先の夜はまだ肌寒い。時折吹く暖かな風には、花の香りが混じっていた。
ローザリアは学園を抜け出し、ある場所に向かう予定だった。
とはいえ門限が厳しい学園において、深夜の外出などもっての外だ。
なのでいつものように、困った時はグレディオールに頼らせてもらう。
彼に横抱きにされた状態で、ローザリアは自室の窓から飛び出す。
上階であるにもかかわらず着地は鮮やかだった。足音一つ立たなかったため、人を抱えているとは思えないほどだ。
グレディオールがいれば、わざわざ校門まで行って誰かに見つかる危険を冒す必要もない。そのまま近場の塀を越える。
塀の外はひと気もなく、静寂が広がっていた。
高い塀に遮られているためか、三日月の頼りない光など届かないようだ。
「行きましょうか」
「はい」
言葉少なに囁き交わしローザリア達は歩き出す。
けれど数歩も行かない内に、ぬっと現れた人影に足を止められる。
「カディオ様……」
久しぶりに名を呼んだ相手は、ひどく厳しい表情をしていた。
「ーーこんなことだろうと思いました」
彼がゆっくり進み出る。
「殿下の護衛でセルトフェル邸を訪ねた時、あなたは何かを隠しているようだった。その思惑までは読めませんでしたが、無茶をするんじゃないかと思ってました」
シンの周囲をうろつく怪しげな者達の話はレンヴィルドにも伝えていたから、カディオはそれ以上言及せず放置するローザリアの姿勢に違和感を抱いたのかもしれない。
何にせよ、これからしようとしていることを見透かされているとすれば居たたまれない。
「その……ずいぶんきっちりわたくしの動向を把握されてますのね」
「把握していたわけじゃありません。とにかく忍耐力との勝負でした」
彼の物言いに、ローザリアの思考が停止する。
「まさか……あれから毎晩、ここに?」
「正確にいうと、春期休暇中にはセルトフェル邸も張ってました。日中の護衛に支障さえなければと、殿下からも許可はもらってます」
何という執念。そして恐ろしいまでの不器用さ。
気まずかったことも忘れ呆然としていると、カディオは苦笑を漏らした。
「これだから、あなたは目が離せない」
一瞬うっかりときめきそうになる発言だが、未だ衝撃の覚めやらないローザリアには全く響かない。
こんなあっさりとした一言でまとめて片付けていい案件なのだろうか。今彼は、およそ二週間にわたる待ち伏せという変質者に等しい罪状を自白したはずなのだが。
ーーまぁ、こういう忠犬のようなところも、カディオ様らしいというか……。
らしいで許せてしまう程度には、ローザリアも絆されているのだから仕方ない。
初めての恋に臆病になり、らしくもなく悩んでいたけれど、それももうおしまいだ。
返事を待つ頼りない表情を見ていれば、意固地になるのも馬鹿らしくなる。
今は普段通りに話せる安堵の方が大きいし、何より彼は、気まずい状態であるにもかかわらず親身に心配してくれたのだから。
ローザリアは、ぎくしゃくする以前の自分を意識しながら微笑んだ。
「そうしてわたくしを野獣扱いされるのは、あなたの主の影響かしら?」
「え!? や、野獣扱い!? そんなつもり……」
「まぁ、いいですわ。その代わり、加勢してくださるのでしょう?」
狼狽えていたカディオだったが、話を変えると顔が引き締まった。
「ーーはい。俺は、あなたを守りたい」
過去の『カディオ・グラント』も関係ない。
それだけは確かな気持ちなのだと。
僅かな月光を照り返す金色の瞳があまりに潔く、気の利いた言葉さえ浮かばなかった。
大型犬のように人懐っこくて、考えていることがすぐ顔に出る素直さも好ましいけれど。
素朴な優しさだけじゃない。
彼が時折見せる強さや頼り甲斐に、何度心を奪われてきたか。
そしてそのたびに、ローザリアも沸き立つような熱い思いに気付かされるのだ。
ーーそう。弱くなど、なるはずがなかった……。
何ものにも揺さぶられない強靭さこそが、自身の強みだと思っていた。カディオの一挙一動に振り回されるのは弱さだと。
けれど、違う。
こうして分け与えてもらえるものがあるのに、これが弱さであるはずがないのだ。
熱い胸を押さえて黙り込むローザリアを見下ろし、カディオが瞳を細めた。
「では、行きましょうか」
「……えぇ」
頬の赤さを三日月に笑われているような気がして、ローザリアは俯いて表情を隠した。
たどり着いたのは、閑静な住宅街。
ここには新興貴族や、爵位の低い貴族らの邸宅が多く建ち並んでいる。
「相手も貴族、確たる証拠なしに糾弾はできません。わたくしの侍女によりますと、今日はその証拠が得られるはず。ミリアも既に別で動いています」
出入り口を、手分けして見張ることとなった。カディオの加勢のおかげで、正面玄関と裏口のどちらも押さえられる。
正面はグレディオールに任せ、ローザリアとカディオは裏手に回った。
勝手口を見張るため手頃な木の陰に身を潜める。
「彼らは、必ず今日合流するでしょう。それまでは待機となります」
「分かりました」
迷いなく頷かれ、ローザリアはふと首を傾げた。
「ここが何者の邸宅なのか、カディオ様はお聞きにならないのね」
「俺には、貴族のことは分かりませんから。ただ指示に従い、あなたを守るだけです」
きっぱりと返す姿に見惚れるが、彼の表情は一瞬にして情けないものに変わる。
「それより、こんな危ないことばかりしてたらご両親が心配するんじゃないかって、その方が不安で」
緊張感のない台詞がいかにもカディオらしくて、ローザリアは少し笑った。
「あら、言っておりませんでした? わたくし、両親はおりません。既に事故で他界しているのです」
軽い口調で言ったつもりが、彼はみるみる顔を強ばらせていく。
「……すみません。失礼なことを言いました」
ローザリアは首を振るしかなかった。
気にしてほしいわけではないが、軽々しい笑顔で誤魔化せる話題でもない。
なので、矛先を変えることにした。
「カディオ様こそ、実家に寄り付かないのは十分親不孝ですわよ」
「っ!」
あっさり狼狽えるカディオに苦笑が漏れる。おかげで、ずっと気になっていたことが聞けそうだ。
「カマをかけただけです。わたくしだって、何もかもを把握しているわけではございませんのよ?」
「いや……あなたなら十分あり得るから……」
呟きを無視し、ローザリアは核心を突く。
「恐ろしいのですか? 家族と向き合うことが」
カディオは動揺を見せると思われたが、逆に黙り込んだ。静かな表情には生気すら感じられない。
「……俺は、本物の『カディオ・グラント』では、ありませんから」
感情を置き去りにしたような独白。
ローザリアは黙って耳を傾けた。
「これが『カディオ・グラント』の体なら、同じ脳を共有してるはずなんです。それなら記憶が甦ってもいいようなものなのに、どんなふうに生きてきたのか、未だに分からない。そんな状態で家族に会えば、どんな顔をされるか。怖いです。俺は『カディオ・グラント』を彼らから奪ってしまった」
転生は、彼の意思で行われたことではない。
そんな気休めは、きっと無意味だった。
堰を切ったように溢れ出す言葉達は、それだけ彼が苦しんできた証だ。
カディオは座り込んで膝を抱えた。
子どもが暗闇に怯えるような、外敵から身を守るような、頑なな拒絶。
「その上、転生前の記憶も、どんどん薄れているんです。今は、自分がどんな人間だったのかさえ、思い出せない。確かなものなんて一つもない。……こんな中途半端な俺は、一体、何者なんでしょう」
ローザリアには、聞くことしかできない。
彼の悲しみを本当の意味で共有できるのは、おそらくルーティエだけだ。
それでも、ローザリアは傍らに膝をついた。
「……どんな人間も何も、今目の前にいるあなたが全てではありませんか」
カディオが、ゆっくりと顔を上げる。
ローザリアはそっと微笑みを返した。
「どうか目を、逸らさないでください。少なくとも、わたくしはあなたを知っています」
何もないなんてことはない。
ローザリアの心を動かす優しさも強さも、彼だけのものなのだから。
しばらくぼんやりこちらを見上げていたカディオが、眩しげに目を細めた。
憂いが取り払えたとは思えない。
それでも、ほんの僅かでも、苦し紛れでも、彼が笑えてよかった。
苦しむ彼に寄り添っていられてよかった。
「……あなたは、悲しみから目を背けない。だから強いんですね」
「え?」
「以前、ご両親の話をしている時、少し悲しそうでしたから。……家族を失う痛みなら、俺にも何となく理解できます」
「カディオ様……」
「でも、たまには気を抜いてもいいと思いますよ。弱音を、誰かにこぼしても」
こんな時にまで、人を気遣うのだから。
ローザリアはやる瀬ないような、過ぎたお人好しを注意したいような複雑な気持ちになった。
それでも一つ息をつくと、今まで誰にもこぼしたことのない思いを口にした。
「……両親は、わたくしがいたから死んでしまったのかもしれないと、いつも考えているんです」
思いがけなかったのか、カディオの目が丸くなる。ローザリアは自嘲気味に続けた。
「今も『薔薇姫』を疎ましく思う貴族はおりますけれど、当時はその比じゃなかった。排斥すべきと声高に叫ぶ者もおりました。優しい両親はそれでもわたくしを守ってくださいましたが、そんな時……」
両親は断れない筋からの誘いがあり、馬車で遠方に向かっていた。
どしゃ降りの雨で、屋敷の中にいてもうるさいくらいの日だった。
馬車は崖沿いの道を駆ける際、ぬかるみにはまってしまった。混乱した馬は闇雲にもがき、その反動で馬車は横転し、運悪く谷底へーー。
「真相は今も分かりません。当時のわたくしはまだ五歳。調べるすべはありませんでしたから」
ただの事故かもしれない。けれど、『薔薇姫』の娘がいたからこそ、起きたことかもしれない。
成長したのち、途中まで調べたことがある。
けれど、怖くてやめてしまった。
未だに両親の死と向き合えないのだ。
いつの間にか俯いていたローザリアの手を、カディオが強く握った。
満月より鮮やかな瞳に真っ直ぐ見据えられる。
「ローザリア様、これだけは言えます。ご両親は確かにあなたを愛していた。『薔薇姫』かどうかなんて関係ない。側にいなくても、ずっと」
柔らかく心に火を灯すような、優しい言葉。
自然と、両親の笑顔を思い出した。
慈しむように頭を撫でる、母の温かな手。
朗らかに笑う父のアイスブルーの瞳。
「カディオ様、わたくしーー」
感謝の気持ちを伝えるべく、ローザリアはカディオへと向き直る。
けれど彼は、こちらを見ていなかった。緊張感みなぎる厳しい瞳は油断なく裏口を見守っている。
ローザリアもすぐにその意味を汲み取り、静かに状況を見守る。
しばらくすると、挙動不審なほど辺りを見回す男が姿を現した。
しんみりする話はここまで。
一斉摘発開始だ。
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