楽しい昼食を
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寒さが緩み、レスティリア王国にも雪解けの季節がやって来た。
初春に咲く花が少しずつ綻び始め、固い蕾から鮮やかな色味をほんのり覗かせる。
それはまるで、これから訪れる彩り豊かな季節を予告しているかのようだった。
レスティリア学園の、目立たない校舎裏の一角。
ここに、一人の少年がいた。
彼は下級貴族の出身で、容姿も中身も突出したところのない人間だと自覚していた。
趣味も貴族にはあるまじき土いじりで、中でも花を育てるのが好きだった。
穏やかで寛容な家族は彼の趣味を認めてくれるけれど、クラスメイトはきっと鼻で笑う。
なのでこうしてひと気のない場所で、小さな花壇の世話をしていることは誰も知らない。
知られてはいけないと、思っていた。
偶然通りかかった、セルトフェル侯爵令嬢に見つかってしまうまでは。
「あ……」
思いもよらない事態に、言葉も浮かばない。
ローザリア・セルトフェル。かの有名な『薔薇姫』であり、『極悪令嬢』。
地味で目立たない自分には、縁遠い存在だと思っていたのに。
嘲笑われ、育ちの悪さをこき下ろされるだけならばまだいい。
けれど、ようやく開き始めた花達を、もしくだらないと踏みにじられたら。
セルトフェル侯爵家に逆らえば、吹けば飛ぶような弱小貴族など、どうなるか分からない。両親や、最近生意気になってきた妹に迷惑がかかるかもしれないのだ。
大切な花を守りきれない絶望を、全て呑み込むしかなかった。
嵐に耐えるように、固く歯を食い縛る。もしかしたら震えているかもしれない。
けれどローザリア・セルトフェルは、少年が予想するどの行動も取らなかった。
「それらは、あなたが育てているの?」
「……え?」
質問の意図が分からず、咄嗟に何も返すことができなかった。
彼女のアイスブルーの瞳が、背中に隠した花壇の花々に移る。そして、ゆっくり氷が溶け行くように、淡く微笑んだのだ。
「きっと、綺麗に咲くのでしょうね」
その、美しさといったらなかった。
シルバーブロンドを肩口でサラリと揺らしながら、僅かに首を傾けて。雪原に咲くプリムラの花のごとく可憐な唇に、艶やかな笑みを浮かべて。
冷たいとばかり思っていたアイスブルーの瞳は、まるでネモフィラのように優しく神秘的だった。
「満開になったら、また来てもいいかしら?」
「は、はい。もちろんです……」
「ありがとう。楽しみにしているわ」
そうして、彼女は去っていく。ピンと伸びた背筋すら美しい。
シルバーブロンドを風になびかせる様は花のようでありながら、舞う蝶のようでもあるような。
「あれが、ローザリア・セルトフェル様……」
少年はしばらく、ただひたすら放心していた。
◇ ◆ ◇
校舎裏を通りすぎ、ローザリアは目的地である中庭へと向かう。
昼食に誘われ、待ち合わせをしているのだ。
準備を万端に済ませたいということで、同じクラスだというのに少し時間をずらして向かっている。
まだ少し肌寒いけれど、外で食事をするという初めての経験に興味津々なので気にならない。
「あ、ローザリアさん!」
春になれば花盛りとなる日当たりのよい中庭に、快活な声が響いた。
元気に手を振っているのは、ルーティエだった。
紅茶や配膳の準備をしているのは彼女の取り巻き達、アレイシスとジラルド、そしてフォルセだ。
最近ますますレンヴィルドが忙しいために、一人で昼食をとる日が続いていた。
そんなローザリアのためにルーティエが企画したのが、今日のピクニックランチだった。現役執行部員であるフォルセも参加しているのだが。
とはいえ、彼が無理やり時間をひねり出したのは、容易に想像がついた。
今日の昼食は、全てルーティエの手作りなのだ。
トマトやレタスやハム、チーズを挟んだ色とりどりのサンドイッチ。茹で玉子やチキン、ベーコンなど食べ応えのある具材もたっぷり用意されている。
揚げた鶏肉やマッシュポテトのようなもの、ブロッコリーなど、付け合わせも充実していた。
黄色いものはオムレツのように見えるがやけに形が整っていて、何かが巻かれているようだ。
「こんなにたくさん作ってくださったのね。見たことないものばかりだわ」
「そうだね! こっちのせか……じゃなかった、貴族の人達は知らないものばかりかも!」
ルーティエが慌てて誤魔化したのは、おそらく前世で一般的な食べ物だからだろう。確かに、サンドイッチにこれほど様々な具材を挟む調理法も聞いたことがない。
「これはベーコンとコーンのポテトサラダ、これはほうれん草とチーズを巻いた玉子焼きだよ! お口に合うか分からないけど!」
前世の彼女はほとんど病院で過ごしていたらしいので、こちらの世界に転生してから料理を嗜むようになったのだろう。
パン屋を営む両親とは、今も良好な関係を築けているのだろうか。
はにかんで笑うルーティエに何か答える前に、猛烈な勢いで男性陣が割り込んだ。
「全部すげぇうまそうだよ!」
「ルーティエ先輩の作ったものなら、全ておいしいに決まってます!」
「家庭料理というものだね。とても楽しみだな」
彼らから漂う必死感に呆れてしまう。好きという気持ちを隠そうともしていない。
ーーわたくしもそれくらいの情熱を、見せるべきだったのかしら……。
あれから十日ほどがすぎたけれど、ローザリアは未だにカディオのことを避けていた。
人の輪に入っている時は、レンヴィルドやルーティエに心配されないよう普段通りに接している。
ただ、積極的に二人きりになろうとしていないだけ。二人きりで話す機会を作らないだけ。
それだけで、自然と距離が開いてしまった。
ローザリアが歩み寄る努力をしなければ、その程度の関係だった。
ただ、それだけ。
そんな事実にすら、胸をざわつかせずにはいられないのだ。
時折カディオが、何か言いたげにしていることに気付いている。
それをあえて無視し続けているのは、子どもっぽい独占欲だ。
もっと必要とされたい。同じ熱量で見つめてほしい。過去のどの女性よりも、特別でありたい。
ーー何て、幼稚な発想。追いかけて捕まえてほしいだなんて、身勝手もいいところだわ。
だから、レイリカのような成熟した女性に、劣等感を刺激される。
ーーもっと。もっと綺麗になれば、自信を持って向き合えるはず。きっと……。
過去の『カディオ・グラント』と、今の彼は別人格だ。分かっているのに。
カディオがレイリカと仲睦まじくしている幻想が、振り払えないーー。
「ローザリアさん?」
名前を呼ばれ、ようやく我に返る。
焦って顔を上げると、ルーティエの湖面のように静かな瞳とぶつかった。
今のローザリアを見て、彼女はどう思うだろう。咄嗟に浮かんだのは不安だった。
身勝手で、利己的で、狡い。
こんなにも醜い自分を、知られたくなかった。
内心怯えるローザリアに、ルーティエはただ笑った。いつも通りの無邪気さで。
「さぁ、食べよう」
彼女の号令がかかったその瞬間、アレイシス達が一斉に動き出した。
ルーティエの手作り料理を巡る熾烈な争いは、水面下で白熱していく。
優雅に振る舞っているつもりだろうがフォルセの手は残像が見えるほど素早いし、アレイシスが全種類を制覇しようとしているのは明らかだ。
ジラルドが勢いに圧されオロオロしていると、ルーティエが注意を飛ばした。
「コラ、二人共! みんなで仲良く分け合って食べるために作ってきたんだよ! 独り占めするようならあげないからね!」
「ごめんね、つい……」
「悪い」
慌てて謝る両者を尻目に、ジラルドが悠々と料理をよそっていく。
そこに先ほどの困惑げな様子はなく、全てが彼の抜け目ない計算だったことが分かる。
こんなところで次期宰相候補らしさを発揮してどうすると言いたい。
あからさまな彼らを見ていると己の行動を省みて苦い気持ちにもなるけれど、それ以上にちっぽけな悩みなどどうでもよくなる。
ローザリアは苦笑を漏らすと、自らもサンドイッチに手を伸ばした。
せっかくルーティエが考えてくれたピクニックランチを、楽しまないでどうする。
サンドイッチを頬張ると、ローザリアの苦笑は驚きに変わった。




