噂
冬が深まると、レスティリア王国の王都は純白に包まれる。
結露に覆われた窓の向こうには、今も静かに雪が降り続いていた。
枯れ木の物寂しさや重苦しく立ち込める暗い雲、外壁のレンガさえ色を鈍らせているのに、冷たい雪だけが白い。
まるで穢れを知らないような、孤高の華。
寮の自室で登校準備をしていたローザリアは、曇り硝子の向こうにしばし見惚れていた。
「ローズ様?」
長いシルバーブロンドを梳っていた専属侍女のミリアが、不思議そうに愛称を呼ぶ。
ローザリアは夢から覚めるように目を瞬かせた。髪と同色の長い睫毛が、蝶の羽ばたきのように儚く揺れる。
「ごめんなさい、途中だったわね。続けて」
「もしや、お疲れなのではございませんか? 今日はお休みにいたしましょうか」
心配そうに顔を曇らせるミリアに、ローザリアは笑顔を返した。
「平気よ、少しぼんやりしていただけ。いつまで経っても心配性ね、あなたは」
「ローズ様が無茶ばかりするからですよ」
「嫌だわ、わたくし勝算のない賭けに手を出した覚えはないわよ?」
「そもそも普通の令嬢は賭けをしませんし、賭けねばならないほど追い込まれたりいたしません」
軽口を見事な正論で打ち返されては、黙る他なかった。最近、専属侍女の舌鋒の鋭さが留まるところを知らない。
共に行動することの多い従者に似てきたに違いないと、ローザリアは外套の準備をするグレディオールを見遣った。
黒髪に神秘的な金緑の瞳を持つ青年は、主を冷たく一瞥だけした。
「何を考えておられるのか分かりかねますが、『使用人は主に似る』と聞いたことがあります」
「あなたのその尊大さは生まれつきでしょう?」
「滅相もございません、我が主」
こういう時ばかり慇懃な態度になる従者に、主への敬意など欠片も見当たらない。
いつものことなので怒りすら湧かず、ローザリアはミリアへと再び話を促した。
「それで? 確か、街の流行の話だったかしら?」
「はい。王都民の間で話題になっている複合型施設の中に、北方のローザンランド王国出身の料理人が出店しております。この国では珍しい、色々な種類のチョコレートが食べられるそうですよ」
「複合型施設? あぁ、ドルーヴというところね。それならルーティエさんから聞いているわ」
先日の賑やかなお茶会を思い出しながら、ローザリアはふと笑みをもらした。
「ミリアよりも彼女の方が情報が早いなんて、何だかおかしいわね」
さすがルーティエというか、やはり街で暮らしていただけのことはある。
クスクス笑声をこぼしていると、髪を整え終えたミリアが微笑ましげに目を細めた。
「よかったですね、ローズ様。ルーティエさんと、お友達になれて」
ミリアも感慨深いものがあるのだろうが、どこかの王弟殿下のせいでこの手の話題はからかわれているようにしか思えない。
ローザリアは微妙な気持ちになって黙り込んだ。
「そういえば昨夜遅く、シャンタン国の船が入港したという話は、もうお聞きになりましたか?」
「シャンタン国? そんな話、レンヴィルド様から聞いていないけれど」
シャンタン国とは貿易も行われていないし、何より深夜の入港というのが意味深だ。レンヴィルドはこのことを知っているのだろうか。
「それとカラヴァリエ伯爵が、三ヶ月ほど前に領地で鉱山を発見したことを公表いたしました」
「カラヴァリエ伯爵……三ヶ月とは、公表するまで随分間があったわね。採掘された鉱物の分析に時間がかかったのかしら?」
「さぁ、そこまでは。ただ確かに何が採れるか公表していないので、少し不思議ですよね。気になるようでしたら調べましょうか?」
「ーーいいえ。今はまだ、いいわ」
こうして毎朝身嗜みを整えながら、ミリアの集めた情報を聞くのがローザリアの日課だった。
街から上ってくるまことしやかな噂話や、貴族の間で囁かれている秘め事など内容は多岐にわたり、彼女の情報網には本当に恐れ入る。
制服もシワなく整え、登校準備は万端だ。
今日も完璧な仕上がりに満足の笑みを浮かべると、ミリアは最後にと付け加えた。
「では、もう一つだけ。最近、街に不審人物がたびたび現れるという噂を聞きました」
それは、ルーティエからも聞いたことのない噂。
広くて活気のある王都。治安はいいが、小競り合い程度ならばそれなりに起こる。
それをミリアがわざわざ報告するということは、ローザリアに関係があるということだ。
「……街に?」
「はい。しかも街と言っても城下ではないのです」
ローザリアに関わりがあり、かつ城下ではない場所。それはつまりーー。
「貧民街、ということ?」
「その通りです。しかも噂の出所は、何とあのごろつき達なのですよ」
以前に誘拐未遂事件で知り合ったごろつき達は、ローザリアの采配によって比較的軽い処罰で済んだものの、これまで通り暮らしているわけではない。
労役刑が課せられた者達は、刑期を終えるまで労役所で寝起きをする決まりとなっている。
とはいえ家族との面会は許されているので、街の噂を聞くのは不可能じゃない。
ミリアも、寮生活で頻繁に顔を出せないローザリアに代わって足を運ぶことがあるため、そこで知ったのだろう。
けれど不審者が貧民街に出没する、というのは奇妙な話だった。
正確には、その噂を貧民街の住人から聞くのは。
彼らは着古した服を着ているし、ろくにひげも剃らない。体も洗わないため、ただの通行人でも王都民にとっては恐ろしく映ることがあるだろう。
だがそれは、王都民から見ればの話。
同じ貧民街に住まう者同士、余程でなければ不審者として扱うはずもないのだ。
ーーだとすれば、実際に不審者が出没しているということだわ。けれど目的は何かしら? 今まで、窃盗の被害が起こったという話すら聞いたことがないけれど。
貧民街に暮らすのは、毎日食べるのがやっとの苦しい生活をしているものばかり。
貯蓄も王都民に比べれば少ないため、強盗をしても旨みは少ないはずだ。
「何とも、奇妙な噂ね……」
ローザリアは独りごちるように呟いた。
ミリア達に見送られながら寮を出ると、まだ少し早いようで人影が全くなかった。
ローザリアは、不審者に関する噂を思い返しながら、石畳の上をゆっくりと進む。
しばらく歩いていると石の感触が靴底から伝わってきて、忍び込む冷気にふるりと震えた。
ふと、顔を上げる。
冬の朝の空気とは、何と鮮烈で厳かなのか。
胸を揺さぶるような静寂に、立ち止まって大きく深呼吸をする。
すると、突然背後から声がかかった。
「ーー何をしているんだい?」
ローザリアが振り向くと、そこにはよく見知った組み合わせが立っていた。
「おはようございます。レンヴィルド様、カディオ様。今日はずいぶんお早いですね」
金髪と、王家にのみ顕れる鮮やかな緑の瞳。
穏やかな美貌の王弟レンヴィルドは、初めて会った頃より大人びた顔に困惑を浮かべている。
「おはよう、ローザリア嬢。それより後ろから見ているとまるで不審人物のようだったけれど、早朝からどうしたんだい?」
遭って早々に皮肉をぶつけられるのも、もはや慣れたものだ。
普段ならばこの峻厳な冬にも負けない冷笑を浮かべてみせるところだが、ローザリアはあえて弱々しい表情を作った。
「冬の石畳はこれほど冷たいものなのかと、驚いておりました。……初めてだったものですから」
「ローザリア嬢……」
途端、レンヴィルドは儚い風情に戸惑い始める。
根が優しいので、良心をつつかれると弱いのだ。
「レンヴィルド様。あまり人が好すぎるのも、隙ととられますわよ?」
ローザリアが白い息をくゆらせながらあからさまに嘆息すると、彼は目を見開いた。
「……演技だったのかい?」
「お心遣い痛み入りますわ、殿下。セルトフェル邸の敷地内に石畳が存在しないと、本気で憐れんでくださったようで」
痛烈な嫌みに、邪気だらけの笑みを添える。
すると彼は疲れたように肩を落とした。呆れていると見せかけてどこか安堵もしているから、こうして悪い人間に翻弄されてしまうのだ。
「あなたは本当に、質が悪い……」
「先に嫌みをおっしゃったのはどちらかしら?」
気の置けないやり取りに、ついに笑い出したのはカディオだった。
「ハハッ! ローザリア様を『極悪令嬢』と呼んでる人達って、見る目ないですよね」
冷気をも突き抜けるような笑い声に、ローザリアは小首を傾げる。
燃えるような赤毛に金色の瞳の騎士は、目尻を拭いながら続けた。
「偏見を捨ててみれば、あなたがどんなに明るくて面白くて素敵な方なのか、分かるのに」
「あ、明るく、面白い……」
自分への評価として、今まで一度も耳にしたことのない単語だ。快活な笑顔と相まって、狼狽えずにいられない。
ーーこの人はまた不意討ちで……。
動揺するローザリアを見てレンヴィルドが笑うけれど、皮肉を返すこともできそうになかった。
「そうだね。確かに彼女は明るく面白い、素晴らしい女性だよね」
「えっと、あれ? 俺、変なこと言いましたか?」
「いいや。さぁ、そろそろ行かなくては」
レンヴィルドが、カディオを促し歩き出す。
ローザリアは羞恥心を静めるように、深々と息を吐き出した。
腹立たしいし心が乱れもするけれど、三人でいると不思議と寒さが気にならない。
ふわりと温もりを得たような心地で、ローザリアは彼らのあとを追うのだった。
併せて連載している
『TS転生ボスと七人の元養い子たち』
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