助かるために
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助かるために。
その言葉に、ルーティエは泣くのをやめた。
覚悟を決めた翡翠色の瞳は、ローザリアから見ても眩しいほどだ。
「何をすればいいの?」
「まずは、どうにかして拘束をほどきましょう。結び目が固いでしょうから、少し時間がかかると思うけれど……」
手首の麻縄は男の力できつく結ばれているため、緩めるまでが大変かもしれない。
ローザリアが苦戦を強いられる中、ルーティエを拘束していた縄がパラリとほどけ落ちていく。
「縛られる時、ロープを少し握ってたのよ。あいつら酔っぱらってたから、全然気付かれなかったわ」
自由になった両手で足首の拘束を解きながら、ルーティエが種明かしをする。
どうとでもなると考えていたローザリアと違い、あらかじめできる限りの対策を取っていたらしい。
「あなた、意外にやりますわね」
「何の抵抗もしないで売り飛ばされる気なんか、サラサラなかったからね。脱出する隙があれば一人でも逃げるつもりだったし」
「それをはっきりおっしゃいますか。あなた、『高貴なる義務』の講義は居眠りでもしてらしたの?」
「私貴族じゃないし」
ルーティエに拘束を外してもらい、ローザリアは手首をさすった。素肌に直接麻縄が触れていたため、柔い皮膚が少し赤くなっている。
「ありがとう存じます」
自由になったローザリアはすぐに部屋を見回す。目当てのものは足元にあった。
「では、早いところ脱出いたしましょうか」
「簡単に言うけど、だからどうやって?」
「フフ」
質問には答えず、ただ意味深に微笑む。
ローザリアが拾い上げたのは、たまたま持ち歩いていた手提げのバッグ。そこから、宗教学の教科書を取り出した。
適当なページを開くと、ルーティエがサッと顔色を悪くする。
彼女は震えながら制止した。紙の裁断面に人差し指を添える、ローザリアを。
「ま、待って……何するつもり……」
「こんなものでも、人の脆弱な体を傷付けることは十分可能なのですよ」
笑みを深めると、躊躇いなく指を滑らせる。
ピリッと痛みが走った指先は、薄皮が一枚綺麗に切れていた。
そこからプクリとにじみ出したのは――――真っ赤な鮮血。
◇ ◆ ◇
ローザリアがとんでもない暴挙に出た一瞬後、花のような芳香がふわりと室内に充満する。
「これが、『薔薇姫』の……」
ルーティエは呆然と呟いた。
誰もが恐れる『薔薇姫』の血液は、ドラゴンでなくとも魅了されてしまいそうな芳しさだった。
甘く華やかで、胸いっぱいに吸い込んでもまだ足りない。きっといつまでも記憶に残り、何度でもその香りに触れたいと思ってしまうだろう。
心の弱い者には毒になりそうだ。
ドゴォォオオオンッ
しばらくは陶酔しきっていたルーティエだったが、突如降り注いだ耳を痛めそうな轟音に、ハッと正気を取り戻した。
我に返って目を開いた時、真っ先に視界に入ったのは秋晴れの青空。パラパラと粉になって落ちる土壁。景色を霞ませる土煙。
部屋はもはや、部屋として機能していなかった。
四方の壁は吹き飛び、家屋の土台だけが間抜けな感じで残っている。
これだけの衝撃の中で無事に立っていられたのは、奇跡としか言いようがなかった。
もしや本当に伝説の通り、大陸の礎となっているドラゴンが目を覚ましたのかもしれない。そんな恐ろしい予感がルーティエの頭をよぎる。
だが土煙の向こうからゆっくりと姿を現したのは、青みを帯びて輝く黒髪。
全身黒ずくめの服をまとったローザリアの従者、グレディオールだった。
「こちらでしたか」
まるで決められた待ち合わせ場所に合流したかのように、希薄な再会の言葉。
「少々遅かったわね」
歩み寄る従者に、ローザリアが手を差し出す。
グレディオールは当然のようにそれを受け取ると、何とおもむろに口に含んだではないか。
ルーティエは開いた口が塞がらなかった。
白くなよやかな指先に、血のように赤い舌がチロリと這わされる。
本人達は淡々とした作業の感覚なのだろうが、直視できないほど淫靡な雰囲気が漂っている。
シルバーブロンドとアイスブルーの瞳を持ち合わせた気高い少女と、禁欲的な従者服に身を包む青年。両者共に突き抜けた美しさを持ち合わせているからか、静謐な宗教画のようですらある。
「これで、ひとまず大丈夫かと」
「ありがとう。こうして血を止めないことには、香りがきつすぎて身動きが取れないのが難点ね」
指から唇を離すと、二人はあくまで淡々と会話を再開させる。
どうやら、一連の流れは出血を止めるためだったらしい。けれど原理がよく分からないし、本当に呆気に取られるほど事務的だ。しかも口を挟めるような雰囲気でもないし。
釘付けだった視線をようやく外してみるも、被害はこの一室だけでは済んでいなかった。
リビングの方も壁がごっそり吹き飛んでおり、テーブルの上で倒れたグラスから酒がこぼれ落ちている。酒盛りをしていた男達の唖然とした表情が、何とも滑稽だった。
侵しがたい雰囲気の主従とつい見比べてしまい、ルーティエは一気に脱力した。
◇ ◆ ◇
「てめぇ、何しやがる!?」
椅子から立ち上がった荒くれ者達がどやどやと近付いてきたため、ローザリアとグレディオールは作業を中断して離れざるを得なかった。幸い、もう血は止まっている。
「人様の家を破壊して許されると思ってんのか!」
若い娘を拘束監禁した彼らの方が許されないはずなのだが、自分達の所業を棚に上げて説教されては呆れるしかない。
そもそも、この半壊した家屋を見て立ち向かってくる神経がスゴイ。
家屋の土台部分は大きく崩れており、半壊というより全壊の方が正しい表現かもしれない。
川にはひどい抉れができあがり、そこに水が流れ込んでいるため元々支流が存在していたのではと思わせる有り様だった。
これを見て逃げ出さないとは、酔っぱらいとは本当に恐ろしい生き物だ。
「弁償しろ!」
「せめて屋根だけでも何とかしろ!」
「そうだ! その蔑んだ目で見下してください!」
口々に文句を言う男達に、ローザリアは冷たい一瞥をくれた。特に、最後に発言をした男に。
「建て直しをお勧めいたします。あなた方にやる気があるのなら、より頑丈な家作りのお手伝いをさせていただきますわ」
言い捨てて川の様子を見に行くローザリアに、男達はポカンとした。
なぜ上から目線なのか理解できないようだ。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
「何でお前らが壊した家を、俺達が建て直すなんて話になってんだ!?」
「そうだ! いいから俺のこと踏んでみろ!」
「お前はちょっと黙ってろ! そろそろお嬢ちゃんのツレに殺されるぞ!」
酔いのためか微妙な性癖をだだ漏らしていた男を、仲間の男が力づくで黙らせていた。
グレディオールが不穏な空気をまとい始めていたため賢明な判断だ。
「ローザリア様、どのようにいたしましょうか」
「せめてどういたしましょうか、にしておきなさい。どのように、という言い方では、虐殺の方法を聞かれている気分だわ」
「当然そのつもりですが」
「虐殺以外の穏便な選択肢を提示しなさい、と言っているのです」
ローザリアは、静かに殺気立っている従者を嗜めた。彼も殺意がだだ漏れだ。
収拾がつかない。頭の中をそんな単語がよぎる。どこかに常識人はいないものだろうか。
しかしこの混沌とした状況で、なぜかルーティエだけがはしゃいでいた。
「すごいわ! 他人の住居を破壊しておいてその悪びれなさ! さすが悪役令嬢!」
「……あなたはあなたで、一体どこに感心しているのかしら?」
呆れつつも、口からは笑みがこぼれた。
失礼な呼び方だが、全くの言いがかりとも否定できない状態なのだから始末に終えない。
確かにローザリアは、ヒロインなど柄じゃない。
より傲慢で、性悪に。
あくどく、冷酷さをひけらかすように。
ローザリアは傲然と腕を組み、これでもかと胸を張ってみせた。
「それに、悪役令嬢ですって? これだけの非道を、ただの役柄で演じられるとお思い? ――わたくし、正真正銘極悪令嬢ですわ」
秋の晴れやかな空の下、ローザリアの禍々しい笑みは輝いていた。ゴロツキ達でさえ自然と全面降伏してしまうほどに。
そこに、望んだ常識人が折よくやって来た。
「こ、これは一体……」
惨状を前に立ち尽くしたのはレンヴィルドだ。
彼の側には護衛のカディオだけじゃなく、アレイシスやフォルセ、ジラルドもいる。おそらくルーティエを心配して駆け付けたのだろう。
仁王立ちする侯爵令嬢と、大きな体を縮こまらせた野卑な男の群れ。家屋だったものの残骸。正直もう、ただの悪夢だ。
「何というか……助けに来た意味があまりなかったような……」
「あら、意味ならありますわ。それはもう十分に」
ガックリ項垂れるレンヴィルドに、ローザリアはニッコリと微笑みかける。有能な友人をみすみす逃がすつもりはない。
「彼らは、人身売買に手を染めているかもしれません。わたくし達を拘束したことがその根拠です」
「なっ、俺達はそこまでの悪事はやっちゃいねぇ! あんたらのことだって捕まえたはいいが、売るツテもねぇから困ってたし……」
「本当だ! これが初犯だった!」
罪科に言及すると、彼らは一斉に否定した。
確かに拘束されただけで、無体な真似はされていない。もし彼らの言い分が正しいなら、厳罰である必要性はないと言える。
「では重犯罪を行っていなかったなら、どうか服役ではなく労役を課してくださいませ。体力だけならありそうですのに、平日の昼間から賭けに興じ、時間をもて余していらっしゃいましたので」
「あ、あぁ……」
戸惑いつつも頷くレンヴィルドの隣で、ジラルドが反論した。
「拘束監禁はそれだけで重罪だ! お前からすれば閉じ込められた程度かもしれないが、ルーティエ先輩はどれだけ怖かったと思ってる!?」
騒ぎ立てる子犬に、圧を込めて顔を近付ける。
「拘束監禁されたことが公になり、経歴に傷が付くのはルーティエ様とわたくしです。あなたはそれでも正義を貫くと?」
まだまだ融通の利かない少年より、ルーティエの方が話が早かった。
「私なら大丈夫だよ、ジラルド君。この人達が更正して真面目に生きていけるようになるなら、私もその方が嬉しいな」
「さ、さすがルーティエ先輩! 何と慈悲深い!」
多少の恐怖はあっただろうに、すぐに笑顔を取り繕える彼女はさすがだ。
ルーティエがジラルドを丸め込んだところで、話は無事まとまった。
「それではわたくし達は、帰ってゆっくり休ませていただきます。事後処理は全てお任せいたしますね。どうか、良きように」
ニッコリと念を押すローザリアに逆らえる者など、最早どこにもいない。
振り返ることなく去っていく主従を、男達は何とも言えない眼差しで見送るのだった。