転がる「花」
鬱々とした気持ちで、家に向かって歩いた。
耳には笑い声が、脳裏には男の子の顔が、どちらも纏わり付いて離れない。
うつむきながら、トボトボと歩き続けた。長い前髪のおかげで、あしもともろくに見えないのに、割と器用な方だとは思う。
運動は苦手だったが、記憶力になら自信がある。家から学校までの道のりなら、二度ほど往復すれば覚えることができた。
もっとも、曲がり道なんてほとんど無いのだけれど。
数少ない分かれ道の最後の一つ、それを示すお地蔵様が目に入った。道を挟んではす向かいに、大きな田んぼがあり、一定の距離を置いて、カカシが数体立っている。
お地蔵様の前にはちょうど、ひょっとこのお面を付けたカカシがいた。
お互い何を言うでもなく、ただ見つめ合う。
どんな気持ちでそこにいるんだろうかと、ふと気になって考えてみようとしたが、始める前にやめてしまった。当たり前だけれど、楽しい気持ちになれるとはとても思えない。
お地蔵様を右に見て、分かれ道を左に曲がれば、祖父と暮らす家に着くことができる。
右に曲がると、しばらく畦道を歩いて、暗く静かな雑木林。越してきたばかりの頃、家の周りを探検した時に見つけた道。
ガードレールも街灯も無い、黒く切り取られるように、木々に抱かれた空間は、初めて通った時こそ不気味に感じたが、今の自分にはぴったりかも知れない。
遠回りすれば、服もうまく乾くかも知れない。祖父を心配させたくはなかった。でも、昼間なら祖父も家を留守にして、畑仕事に精を出しているかも。束の間の逡巡。
でも…。
ゆっくり目を閉じて、耳を澄ませる。
決めた。お地蔵様に見送られながら、雑木林へ足を向けた。
ミーンミーンと、蝉の声がそこら中から聞こえる。
先程は疎ましく思ったその声も、今はなんだか私の事を鼓舞するようにも聞こえた。
雑木林に差し掛かる。蝉達の鳴き声も少しだけ和らいで、ざっざっという足音がやけに大きく聞こえた気がした。もう、すぐそこまでに近づいて来ていたようだ。
「ちょっと!」ようやく声をかけてきた。
でも、すぐには止まってあげない。少しだけ意地悪をする。
「〇〇さん!」この辺りの人は、人を呼び止める時のマニュアルでもあるのだろうか。
あの男の子と同じような言い方だと、そう思って少し気分が悪かった。同じ地域で生まれ育ったのだ。似ていてもおかしくはない。
それでも、何か無性に腹が立った。
振り向いた私の顔はどんなだったろう。
深呼吸をしながら思い浮かべた、アイスのCMに出てくるアイドルみたいに、貼り付けたような笑顔をうまく作れていただろうか。それとも、心がそのまま現れて、嫉妬と憎しみに狂った顔だっただろうか。
(あまり怖がらせてはいけない。せっかく、話しかけてくれたのだから)
私の顔を見た女の子は、少し緊張した面持ちだ。
これでは、どちらかわからない。
それよりも、ぎゅっと口を結び、何か言いたげな様子に、あの男の子の面影を見た気がした。
(そんな表情すら真似るのか)
膨らみ胸を焦がす妬心に、目の前が赤くなる。
しかし
「あのさ、その…。今日のこと、ごめんなさい」
深々と頭を下げられて、私は面を食らってしまった。とても意外に思った。人に頭を下げるなんて、そんな事が出来る子だったのか。
鳩が豆鉄砲を食らう。そんな言葉が頭をよぎる。
「言い訳するんじゃないんだけど、うち、親が離婚で揉めてて…。むしゃくしゃして、でも、どうして良いかわかんなくて。私馬鹿だからさ…勉強も出来ないし…」
私は黙って、女の子の独白を聞いていた。
最後の方は、ほとんど泣いてさえいた。とても哀れに思った。
「ヒロトにも怒られて、謝らなくちゃって、追いかけて来たの…」
ヒロト。そうか、あの男の子はヒロトと言うのか。苗字すら、まだまともに呼べもしない私をよそに、女の子は易々とその名を口にする。
私は右手を差し出した。いつかそうしてもらったように。私だってあの男の子を真似てみたかった、それも理由の一つだ。
女の子は、途端に笑顔になって、小走りで駆け寄った。本当は素直な子なのだろう。
女の子の両手が、私の右手を包む。
「ありがとう。ありがとう。ごめんなさい…私…ほんとにひどいことした…ごめんなさい」
泣き顔で礼を言いながら、より強く手を握られる。涙で濡れた頬。手のひらから伝わる、柔らかで暖かな熱。
全てが気持ち悪かった。
カバンを持つ左手。持ち手を強く握りしめて、向かって左のこめかみを狙って、思い切り振り抜いた。
『がっ!』鈍い音がした。
そういえば、今日、英語の授業で使うはずだった、辞書が入っていた事を思い出した。重さも、硬さもちょうど良い。
中学校から始まった、慣れない科目が好きになれなかったが、明日からは違う気持ちで授業に臨めそうだ。
文字通り不意打ちだったのだろう、女の子は半ば倒れるようにして、その場にへたり込む。
人間、本当に驚いた時は声も出ないとよく言うが、本当にそうなんだと感心した。
頭を抑える手が、カタカタと震えている。結局のところこういう子は、取り巻きがいないと何もできはしないのだろう。
やれやれと思いながら、女の子の側に落ちていた、ソフトボール程の石を掴んだ。重さを確かめてみる。
その様子を女の子は、見開いた目で見つめていた。それをめがけて振り下ろす。
「ぎゃっ!」女の子とは思えない濁った声に、少しがっかりした。
こんな子のどこが良いのだろう。いや、まだそうと決まった訳ではない。私にだって、チャンスは十分あるのだ。
そんな事を考えながら、二度三度、石を打ち付ける。十を数える頃には、抵抗する事も無くなった。
シャツに真っ赤な飛沫が飛ぶ。夏祭りに、浴衣を着ていけば、少しは振り向いてもらえるだろうか。
赤い水玉模様なんて、私は持っていただろうか。お母さんのお古の浴衣に、そんな柄があった気がする。
一瞬そう思ったが、目の前のそれを見て思い直した。そうだ、あの柄の浴衣を着ていこう。
薄い藍色に、真っ赤な椿が咲いたあの浴衣。
《爽やかバニラに、笑顔弾ける!》
またしてもあのCMが頭をよぎった。夏祭り、気になる男の子と、アイスを食べながら。
不意に重さを感じた。女の子はだらりと顔を仰け反らせて動かない。掴んでいた襟元から手を放すと、女の子はごとんと地面に倒れ込んだ。
弾ける笑顔には程遠い、形の悪い花のような顔になってしまったが、今、目の前に横たわる女の子なら、あのアイドルよりは好感が持てるような気がした。
石を放り投げ、家に帰ろうとしてふと思い立った。そうだ、この子も連れて行こう。
思えば、友達を家に招くなんて初めての事だ。
友達。そう呟いて、そうか友達とはこういうものかと、少しおかしくなった。
祖父はこの子を見て、何と言うだろうか。ようやく友達を作れた私を、褒めてくれるだろうか。
少し不安になって、やっぱり連れて行くのはやめようかとも思ったが。
勇気を振り絞って、決断した。
女の子の両脚の間に立つ。足を持ち上げ、脇にしっかりと挟んだ。ゆっくり、一歩ずつ前進する。
帰宅部にはなかなか骨が折れる。あんなに冷んやりしていた雑木林のなかで、額に玉のような汗をかきながら、私はそれを引きずった。
ほんとに、少しダイエットでもしようとは思わなかったのだろうか。時折、歩みを止めては、ずんぐりした脚を持ち替える。大変な重労働だと思ったが、もう諦めない。
《友達を家に連れて行く》
そのフレーズに、わくわくしていたのもあるが、そのまま置いて行くなんて、正直出来なかった。
だって、もったいないから。