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石橋

作者: 濱野乱


ここに、対岸に続く橋がある。全長はおおよそ、二十メートルくらいの石橋だ。欄干下を流れる小川は陽光を反射し、澄んだ水底がのぞき込めるほど浅い。外来の水鳥が魚を穫りにくることもあった。

「渡りましょう。若さん」

袴姿の女学生がおもむろに口を開いた。よく櫛の通った髪にリボンをまとめた、妙齢のお嬢さんだった。


その隣で青ざめるのは、詰め襟の青年である。細面で整った目元、輪郭もすっきりした美男だ。若さんという呼び名は彼が、名の知られた造り酒屋の跡取りであることに由来していた。

「若さん、橋は動いてくれないわ。日が暮れてしまうわよ」

若さんはお嬢さんをその場に残し、うろうろと何かを探し回っている。


嬢さんは、若さんのご近所で幼なじみだ。彼女は一人で橋を渡ろうと考えたが、あんまりつれない態度は若さんの機嫌を損ねると予想できたので、辛抱強く待つことに決めた。


しばらくして、若さんが戻ってきた。手には細い枝を握っている。まるで西洋のステッキのようだ。彼におあつらえむきだった。

「まさかお酒を召してるんじゃありませんわね?」

お嬢さんは、冗談めかして訊ねたが、若さんが返事をしないので、不安が増した。

「ねえ? 本当に大丈夫?」

「ああ……、それよりも、ちょっと、君、そこの橋は危ないぜ。もっとこっちに寄ってごらん」

若さんが思いの外強い力で、お嬢さんを引き寄せた。

「痛い! 何なさるの!?」

お嬢さんの口調は激しかったが、目つきは笑っている。

「仕様がないだろう。そこの橋は危ないんだ。君、この橋がいつできたか知ってるか?」

お嬢さんは欄干の側にしゃがみ込む。

「……、大正四年。つい、二年前よ。私、覚えているわ。姉様が興入れなさった年だもの」

「それは改修された年さ。その前からこの橋はあったのだよ」


若さんは枝ステッキで、橋の一端を叩いた。

「この橋はね、ご維新の前に作られたものだ。この近くには、旧幕府軍の兵站基地があったのだ」

「へいたん……?」

お嬢さんは、漢字を当てられず訝るように口をすぼめる。

「平たんというのは物資なんかを運ぶ、いわば、後方支援を任務とする機関のことだよ」

「では安全ですね。前線で戦うより、命の危険は少ないから」

「とんでもない! 食料を奪われたら、戦争はできないじゃないか。兵站は真っ先に狙われるのだよ。常に危険に晒されるのは、前線の兵と同じさ。それでね、旧幕府軍は新政府軍についにこの橋まで、押しやられた。進めばやられる、退けば、上官に撃たれる気色あり。さあどうするか」


お嬢さんは、若さんを食い入るように見つめる。今や気分は負け戦。

「弾薬、糧食を奪われるのを嫌った幕府軍は、この橋を爆破した。まだ奮戦していた、自軍の兵もろともね」

お嬢さんは橋を視界に入れないように、他所を向いた。

「お亡くなりになってしまったのでしょうか。彼らは」

「恐らくね。当時は、まだこの当たりは堤もないから急流で雨後だったから、死体はあがってこなかったそうだよ」


青年がとつとつと語ったおぞましい歴史に、お嬢さんは一端は肝を抜かれた。しかし、教養婦人を目指す彼女は、気を持ち直そうと顎を上向ける。

「でも、危ないことはないでしょう。だいぶ前の話だし、橋だってほら、きちんと」

「きちんとできてるのが問題なんだ。君、聞いたことないかい? 架橋の際、生きた人間を埋めるって話」

お嬢さんは、口元を手で覆った。


「明治に入って、この川で水難事故が多発したらしい。それが祟りによるものだというのは、想像に難くない。それを鎮めるために、生娘を橋桁に埋めて捧げたんだ」

まるで見てきたように語るものだから、真実味はそれなりである。

彼の公算ではお嬢さんが、すっかり動転して泣きついてくるはずだった。男女が同じ危機的状況を共有するに限り、二人の距離は飛躍的に縮まるという説を何かの本で読んだ彼は、一計を案じたのだった。橋を爆破したというのも人柱も皆、法螺話である。


「若さん、橋を渡ってください」

ところが若さんの目論見に反し、お嬢さんは気丈であった。

「えっ?」

「若さんが渡ることができれば、私もその後に参ります」

「一緒に行かないか」

「絶対イヤ!」

お嬢さんは、はっきり拒絶した。二人同時に逝くよりは、一人が犠牲になる方がましである。若さんが考えるより、遙かに実際的な考えをお持ちである。

「さあ、さあ、その枝で石橋を叩いて渡るのです、若さん」

取り付かれたような不穏な目で、せき立てられ、若さんは窮した。


何事もなかったら、嘘を白状せねばならないし、何かある風を装うのも容易ではない。

ひとまず若さんは息を一吸いし、橋を走り抜けた。対岸で手を振ると、お嬢さんが、わーっと泣き出した。

「若さん、若さんは……、どうして死なないのですっ!」

「僕に死んで欲しかったのか、君」

げんなりしたが、ことは単純ではなかった。

「若さんが死なないと、私に祟りがあるやもしれませぬ」

「大丈夫だから、おいで」

やさしく呼びかけても、欄干にしがみついたお嬢さんはなかなか動こうとしない。片足だけ橋に踏み出しては戻り、埒があかなかった。

「やはり無理でしゅ!」

鼻水まみれの顔を見るのが忍びなく、若さんは覚悟を決めた。橋で躓いた振りでもすれば、気が紛れるだろう。

橋の中程当たりで、前のめりに倒れようと用意をする。その際、折り悪く強風が吹き、上体を煽られた若さんは橋の欄干からみるみる落下した。瀑布もかくやという、水の爆ぜる音は周囲を脅かさずにはおかなかった。


お嬢さんは橋の曰くを忘れ、橋の中央に馳せ参じた。そこで見た光景は。

「若さん!」

川底は浅いため、若さんは頭を打ち、ぷかぷか浮いていた。その周りの水面に、油のように血がまとわりついている。

「あ、ああ……、祟りが」

お嬢さんは腰を抜かしたが、自身が橋の中程に座っているのに気づき、橋の対岸側へと急ぎ這っていった。そこには、若さんが持っていた枝が落ちている。

お嬢さんは、諦めるように首を振った。

「だから言ったじゃありませんか。石橋はちゃんと叩いて渡るようにって」

 

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