プロローグ:出港の手土産には野兎のパイを
『ーーー、ーーーーーーーーーーーー?』
「これは実に奇っ怪難解な事案だよ撫子」
雑踏に埋もれたヘッドホンが機械音混じりに喋り出す。その音に首を傾げて振り返る大人たちをそっちのけに、子供の声があっけらかんとこたえる。
それはへんてこな光景だった。
※※※※※※※※
いつの時代の文字使いかも分からない古いフォントで印字された看板が、風に吹かれてキィキィと揺れている。日に褪せた文字から微かに読み取れるのはごった煮の綴り。それを掲げるアーチの下には雑多ながらくたが道の端に寄せられている。
廃れた遊園地のようなアーチをくぐれば道の両端には露店がところ狭しとテントを張り、奥に行くほど先細るように狭くなっていく通路は、最後には迷路のような細い路地へと分岐している。
入り口の初めは表の世界だなんて薄暗い所がある商売場所ではないが、奥へ奥へと細い路地に見世をだす古株の露店には、怪しげな風貌のサングラスの男や中華風の衣装を纏った青年、長い白髭のおっさんやらが思い思いに客引きをしている。
それらはいっそう胡散臭い空気を醸し出しているが、一方で並べられる商品の大半はお菓子や野菜などの食品ばかりだ。
そこには大通りにあるぼったくりのような値段を吹っ掛ける正規店は一つも並んではいないが、かわりに闇市のようなマーケットにはいつだって胡乱と喧騒が軒を連ねている。
値切りを求めるがなり声や酔客の罵声に怯むような女子供はこんな雑踏にはいやしない。何故なら通りすぎる一般人の誰も彼もがアウトローなのだ。
都落ち、そう揶揄されるここは第4階層市街地帯1219区域。
企業に勤め社会に貢献する、そんな一般的と呼ばれる生活が出来なくなってきた人々が、浮浪者や犯罪者へと堕ちていく瀬戸際の生活を送る街。
だがそこは酷く活気に満ちている。
露店と露店の隙間にあるボロい庇の下にひっそりと、広げた敷物と木箱に色鮮やかな商品を陳列している店がある。積み上げた商品が絶妙なバランスを保っている危うい見た目に反して、白い口髭をたくわえた翁が商品に埋もれるようにして穏やかな表情で店番をしている。
その露店の前には、もはや恒例といった風に地べたに座り込んだ子供が真剣な様子で商品を嘗るように吟味している。
時折首にかけたでかいヘッドホンから流れる電子音に肩を竦める子供は、偏屈な探偵を気取って口をへの字に曲げては表情をくるくると変える。
お手上げかい?いいや、そんなことはないさ。百面相をはじめた子供の頭の中の名探偵はそういって帽子を目深に被った。子供と長年苦楽を共にしている彼はいつだって、どんな些細な事件だって諦めちゃいない。何故なら彼は子供の頭の中の存在でしかないのだから、不可能など不可能な事なのだ。
ひとりしたり顔でない胸を張って腕を組んだ子供の後ろを、人波が昼下がりの賑わいと喧騒を孕みながらスルスルと流れていく。
張りすぎた胸にひっくり返りそうになったちまい身体が波に拐われかけたのをあわやの所で取り返し、おわっと間抜けな声をあげて後ろ手を付いた子供の掌に、雑踏から抜け出した小石がぶつかった。
子供が露店の前に座り込んで既に短針が二回長針と面談を終え、時計の針は狭い円の中を飽きもせずぐるりと回っている。一人芝居の観客たる露店の主はとっくに七回目の欠伸を終えコクリコクリと大海原に船を漕いでいた。
きょとり、とこぼれ落ちそうなほどに大きな瞳を瞬かせ視線を見通しの悪い背後に向ければ、世話しなく動く脚の群れがモザイクのように通り過ぎていく。
子供の低い目線が垣間見たのは、珍しげに子供に視線を向けた幼児が母親に手を引かれるまま通り過ぎていく姿だけだった。
『虻蜂取らず、という諺が御座いまして』
「それは詭弁だよ」
ヘッドホンから流れる少女の言葉に人波から目を離さず間髪入れずにこたえた声はぴしゃりと断言した。
『……まぁ』と呆れを多分に含んだ感嘆の声がもれた。
視線の先には幼児が握っていたうさぎのぬいぐるみが雑踏の隙間からだれりと垂れた腕を振っている。
その硝子細工の真っ赤な瞳は座り込む子供の姿をぐにゃりぐにゃりと映していた。
「兎を追いかけた奴だってそうさーー
ポツリ、と呟いた声は雑踏に消えただろうか。
とっくに消えたうさぎの行方を振り切るように、長く地面とよろしくしていた身体を起こそうと、子供は手足に力を入れる。見世の庇から溢れる陽射しが子供の顔に斑に影をつくっていた。子供の表情は見えない。だが言葉は続く。
ーー追った奴の腕が悪かった。
そう、ただそれだけのお話なのさーーッツ!?」
ドゴーーーーンッッツ!!!!っと、
繁華通りの向こう側、大通りの更に奥からその轟音は雄叫びを上げた。
押し寄せてきた多量の煙が足元を吹き抜ける勢いに押されて、立ち上がりかけていた子供の身体が一回転をする勢いで前屈みにつんのめる。
ふぎゃっだかぎにゃっだかの声はしかし、一瞬の静寂の後に堰を切ったように駆け出した人々が気にする筈もなく、幸いな事にショートパンツに包まれた尻が高く上がったみっともない姿の目撃者はいなかった。
「ーーッ撫子!!」
『後方32線1ステップ、現場までの最短ルートです』
擦りむいた赤い鼻を擦りつつ立ち上がった子供に電子音は寸分の間も置かずにヘッドホンを振動させる。それに軽く頷きポケットを探った子供の口がニンマリと悪戯な笑みを浮かべ、その中身を露店の小銭受けの欠けた皿に放り投げた。
「お代はここに置いてくよっ!」
「ぉお、出港かい?」
小銭が陶器に跳ねる音に漸く片目を薄く上げた耳の遠い店主の寝言を背中に、トレードマークの猫耳フードを被ればエンジン全開。勢いよく地面を蹴りつけた足が跳躍補助装置によって小さな身体を空に打ち上げた。
靡く赤いパーカーが白い排気に絡む。
跳び上がって一回転、愛用のゴーグルをかければ着地した場所は街のいたるところに張り巡らされた電線の上だ。細いワイヤーを靴から飛び出したローラーのブレードがギャギュギャッと軋みを上げながら咬む音が、まるで下品な笑い声に聞こえる。
ーー遠くで人波に揉まれた幼子の泣き声が響いていた。
「Rabbit,rabbit,rabbit pieーー
呟く言葉に肢体が低く前に傾ぐ、空転するローラーから薄く立ち上る煙がゴーグルに反射する光を屈折させ、黒い硝子の表面に極彩色の虹が揺らいだ。
引き絞られた弓がはぜるように、それは唐突に軛を外され走り出す。
ーーLet's hunting !!」
吼え声だけがその場にながく尾を引いていた。