第五話 名探偵の宿敵
数学的ジョークに次のような話がある。
天文学者、物理学者、数学者が、スコットランドを走る列車の車窓から、のどかな田園風景を眺めていた。
天文学者が一頭の黒い羊を牧場で見つけていった。
「なんと珍妙な。スコットランドの羊はみんな黒いのか」
すると物理学者はそれに応じていった。
「だから君たち天文学者はいいかげんだといわれるのさ。正しくは『スコットランドには黒い羊が少なくとも一頭いる』だろう」
それを聞いて、数学者が首を振っていった。
「だから君たち物理学者はいいかげんだといわれるのさ。正しくは『スコットランドに少なくとも一頭、少なくとも片側が黒く見える羊がいる』だろう」
ここまでが原典である。ここにもう一人登場してもらおう。
差し向かいに座る三人の学者と同じコンパートメントの一角に、もう一人、初老の男が座っていた。彼はまんじりともせず、目を閉じていたのだが、学者たちの話を聞き終えて、かっと目を開き、数学者にいった。
「だから君たち学者はいいかげんだといわれるのさ。正しくは『スコットランドに少なくとも一頭、少なくとも片側が黒く見える羊がいる』、もしくは、そう我々に思わせたいとたくらむ何者かが、一人以上いる」だろうね」
三人が声をそろえていった。
「おまえは何者だ?」
そう、彼は名探偵である。
かように、名探偵は、あきれるほど疑り深いものである。
そうでないと、ミステリ好きの読者を欺くことなどできない。
こう書くと、名探偵は万能のように思える。
ここまでで、なるほどと思ってくれるなら、あなたは、まだまだミステリー・フリークとはいえない。
もうひとつ数学的ジョークを紹介しよう。
物理学者、生物学者、そして数学者が、カフェから、向かいの建物に出入りする人々を観察していた。最初に彼らは二人が建物に入って行くのを見て、しばらくして三人が出てくるのを見た。物理学者は「あれ、見落としがあったかな」といい、生物学者は「いや、なかで増えたのさ」といった。それに応じて、数学者は「もしあと一人が建物に入れば、中には誰もいなくなるね」といった。
この話では、物理学者は測定のミスを疑い、生物学者は建物のなかで人が生まれたのだと推測する。一方、数学者の頭の中では、マイナス一人という仮想状況が大手を振って成立するので、一人増えればゼロとなるわけである。
名探偵でも、この数学者の論理を超えることはできまい。せいぜい生物学者のいうようなトリックを看破するまでだ。というのも、マイナス一人を受け入れてくれる寛容な読者がいないからだ。
このエッセイの展開は、ちょっとした「どんでん返し」。
ということで、名探偵の宿敵は数学者である。